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震災に生きる情報通信  ──『モールス電信士のアメリカ史』刊行に寄せて

松田 裕之

2011年3月11日、東北関東を襲った大地震は、想像を絶する大津波を引き起こし、太平洋沿岸部の街を一瞬にして呑みこんだ。その夜からテレビには生々しい被災の光景が映し出され、やがて極限の中で人びとが演じざるをえなかった生と死のドラマも語られ始める。
以前当社から刊行した『電話時代を拓いた女たち 交換手のアメリカ史』の中で、マサチューセッツ州に台風が襲来した際、村民に洪水の危機を知らせようと交換局に居残り、みずからは洪水の犠牲となった女性交換手のエピソードを紹介した。
「洪水がきます。山の方に避難してください!」 
それから百余年の歳月を経て、これと同じことが宮城県南三陸町で起きた。同町役場防災庁舎に勤務する若い女性職員の声が防災無線をつうじて町内に響いたのだ。
「大津波が来ます!すぐに高台に避難してください!」
その様子がテレビに流れ、その声の主の運命を知った私は、全身が化石し、涙が零れるのを禁じえなかった。
この声に命を救われた人びとがいる。生をつないだ人びとは、絶望と背中合わせになりながら、苛酷な環境を生きねばならない。心身両面にわたる迅速かつ大規模な救援が求められるときに、最も必要不可欠な連帯と協力を実現する手段こそが情報通信なのである。
テレビとインターネットで東北・関東各地の被害状況を確認していると、被災各地においてTWITTERや災害用伝言板を介した情報通信が機能し、難を逃れた人びとの生活と復旧への取り組みを支えていることも報じられた。
『モールス電信士のアメリカ史 IT時代を拓いた技術者たち』を刊行する直前であった私はふと思った。南三陸町で人びとを救った防災無線も、被災地の人びとを心身両面でサポートしているネット通信も、いわゆるデジタル型の情報通信手段であり、その起源をたどると150年前にアメリカで開発されたモールス電信にいきつく、と。
(・)と(─)の組み合せで文字や数字を表すこの電気通信方式は、19世紀後半から20世紀前半にかけて世界各地を電線や海底ケーブルでつないだ。実際、政治・経済・文化のあらゆる情報が、このネットワークに乗って世界を駆け巡ったのだ。
こうした事実から、近年ではモールス電信の社会的な意義の見直しが進み、それが史上初の地球規模通信網として活躍した時期のイギリス女王にちなんで《ヴィクトリアン・インターネット》と称されることもある。
かつて分散型情報通信網を構想し、インターネット開発に寄与したポール・バランも、「各地に網の目状に張り巡らされた電信網は、たとえどこかの通信基地が壊されても、他の無傷の通信基地を経由していくことで情報を目的地まで確実に届けることができた」と述べ、《ヴィクトリアン・インターネット》の優れたサバイバビリティを強調している。
災害時にもモールス電信はいち早く災害の危機を人びとに知らせて多くの人命を救い、復旧・復興に際しては物流の円滑化に必要な情報を伝達した。やがてモールス電信は有線通信から「トン・ツー」の信号音でお馴染みの無線通信へと進化を遂げる。あのタイタニック号遭難を伝えたのは、実用化間もない無線電信であった。
この度、『モールス電信士のアメリカ史』の執筆にあたり、アマチュア無線関連のHPにも頻繁にアクセスしたが、震災翌日にはそれらに「無線通信機の供与をお願いします」の依頼が掲載されている。
東南海大地震の発生も危惧されるなか、防災・被災・救命・避難・復旧の各段階において「万が一の時に使える通信手段」の準備に、個人レベルならびに社会レベルの両方から取り組むことは、まさに焦眉の急であろう。
それはピーター・ドラッカーの言葉を借りれば、「既存の資源に、新しい、より大きな成果を生む能力を与える仕事」=イノベーションにほかならない。そして、その実現には、『論語』にいう「温故知新(昔の人びとが残した知恵を見直し、新しいことに挑戦するための糧としようじゃないか)」という姿勢が肝要になるはずだ。
[まつだ ひろゆき/神戸学院大学教授]