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  • PR誌『評論』183号:福島自由民権と門奈茂次郎7 加波山事件裁判の不思議

福島自由民権と門奈茂次郎7 加波山事件裁判の不思議

西川 純子

判決が出たのは明治19(1886)年7月であった。最も重大な罪状は警官一名の殺害であったが、下手人を特定できなかったために現場に居合わせた13人すべてを死刑相当とし、このうち20歳未満であった河野、五十川、天野、草野、小林の五名については一等を減じて無期徒刑とした。山口は判決の前に獄死したので、死刑の判決を受けたのは琴田、三浦、横山、小針、杉浦、富松、保田の7人である。横山は刑死寸前に獄中で亡くなっている。原、玉水は無期徒刑、鯉沼が有期徒刑15年、門奈がすでに述べたように同13年、佐伯が重懲役10年、大橋源三郎が同九年であった。
あえて常事犯として裁きながら、判決のこの厳しさは何を物語るだろうか。
それは国事犯として断ずべきものを常事犯として扱った故の矛盾なのではないだろうか。そうであれば、彼らを国事犯ではなく常事犯として裁かなければならなかった理由は何なのか。茂次郎は明快に藩閥政府の圧力という言葉を使っているが、大島太郎氏も政治的という言葉を用いて加波山事件の扱いに司法判断以外の要素が加わったことを指摘している。氏は、天下の耳目を集める結果となった福島事件などの事例からみて、政府がなるべく目立たないように分割して裁判を行ない、国事犯として高等法院で裁くことを避けようとしたのではないかと推定しておられる。(大島太郎「加波山事件」『日本政治裁判史録』)。福島事件では自由民権運動を高圧的に抑えようとした政治の力学が、加波山事件では政府批判の声を秘かに潰すことによって自由民権運動を封じ込める方向に働いたということだろうか。自由党はこの動きに抵抗するどころか、解党の道を選ぶことによって「暴徒」に厳しい世論をかわそうとしていた。(『自由党史』下)。
茂次郎の手記には、明治31年になって、福島の憲政党支部発会式に来場した板垣退助と言葉を交わしたことが記されている。板垣はこの時すでに伯爵であった。「伯は余に対して『アノ時ハ随分苦心をした。国事犯に問ふべきものを民事犯に問はれたのは、実に残念であった』といはれ感慨深きものの如くなりし」。「アノ時」、板垣が何をしてくれたかはつまびらかではない。

空知集治監
明治19年10月、茂次郎は河野、天野、小林、原、玉水、鯉沼の六人とともに北海道の空知集冶監に送られた。石狩川を隔てた樺戸集治監には五十川と草野が送られた。空知集治監での徒刑生活について茂次郎が書き残したものはない。しかし、空知にせよ樺戸にせよ、北海道に集治監が設けられた理由は囚人の労働力を北海道開拓事業のために利用することにあったから、外役と称される道路工事や炭鉱での採炭作業が囚人に苛酷な労働を強いたであろうことは想像に難くない。供野外吉は次のように述べている「ここには、当時の人心を恐怖のるつぼに陥入れた極悪犯の徒輩が送獄されていたが、特異の犯罪者には、罪を国事に得た自由民権者たちがあり、極悪の徒らとともに、千古の密林を切り開き、あるいは暗黒の坑底にいどむ原始労働の苦役に服したのであった」(供野外吉『獄窓の自由民権者たち』)。常事犯として収監された加波山事件の人々は、ここでは「国事犯」として特別視されていたということだろうか。明治二四年には福島事件の刑を終えて国会開設とともに第一期の衆議院議員となった河野広中が、板垣とともに空知集治監を訪れている。
自由民権の「国事犯」が多少とも優遇されたとすれば、それは彼らが模範囚だったからである。模範囚は「賞表」をもらうことができる。「賞表」とは、二寸四方の浅葱色の布切れであり、これを囚人服の上衣の左袖上部につければ、入浴の順番が繰り上がり、月に2度の外部への発信が許された。「賞表」を2個もらうと、労働が少し軽減され、主食の量が五割増しになった。3個になると、将来の生計を考えて作業の変換を申し出ることができたという。明治25年12月に空知集治監が司法省に送付した加波山事件犯罪人の行状録は、河野、天野、鯉沼、玉水、小林、門奈の6人がいずれも二個の「賞表」の保持者であることを記していた。行状録はそのまま、空知の典獄による減刑上奏の資料となったという。典獄が囚人の徳育のために彼らを用いたことも優遇措置につながったかも知れない。集治監内に設けられた学房で彼らは小学校教科書を教え、四書の素読を指導したという。(供野外吉、同上)
〔にしかわ じゅんこ/獨協大学名誉教授〕