• TOP
  • PR誌『評論』
  • PR誌『評論』183号:福田徳三とは──その人となり(一)  ──堺利彦らをめぐって

福田徳三とは──その人となり(一)  ──堺利彦らをめぐって

金沢 幾子

明治・大正・昭和も遠くなった現在では、吉野作造や河上肇は知っていても、その同時代人福田徳三を知るひとは多くはないと思われる。
東京国立にある一橋大学附属図書館前の福田記念碑(1960年建立)の裏面には、門下生を代表して中山伊知郎の文および書にて、「明治7年12月2日東京神田に生れ昭和5年5月8日没した」「日本における経済学の黎明期にあたり、歴史理論政策の広汎な分野に開拓者としての使命を果たす」「着想は時事に即して一歩時流を抜き、該博な考証と権威に屈することなき峻烈な批判とは聴講の学徒を魅了し、また学壇に大きな影響を与えた」「晩年想源をギリシアの先哲に求めた雄大な厚生経済学の構想が不幸にして未完に終わった」ことが伝えられている。
福田は高等商業学校(現一橋大学)に学び、ドイツに留学。ブレンターノ教授の指導のもと、『Die gesellschaftliche und wirtschaftliche Entwickelung in Japan』を1900年出版。帰国後母校や慶応義塾などに教鞭をとり、左右田喜一郎や小泉信三ほか錚々たる人材を育てた。社会政策学会における活動や大正デモクラシーの源の一ともなった黎明会運動も挙げられよう。論敵といわれた河上肇が京都大学を解職された1923年には、「笛吹かざるに踊る──労農党の解散と大学の圧迫」を「東京朝日新聞」に発表した。最晩年は社会局参与として、社会問題の調査や社会立法の立案につとめた。
2010年10月に刊行された故黒岩比佐子氏による堺利彦の伝記『パンとペン』には、福田が堺の『売文集』「巻頭の飾」を書いた一人として、雑誌「新社会」に堺が評論した対象者の一人として、また吉野作造と共に黎明会を立ち上げたが、社会主義者の入会を断った人物として取り上げられている。堺の獄中読書リストには、福田の『日本経済史論』(既出ドイツ出版書の坂西由蔵訳)も含まれるが、このふたりの交流については残念なことに触れられていない。
福田は、東京高等商業学校休職中にマルクスの『資本論』を原文で読了したことから、資本主義論者でありながら、堺や山川均らからは河上に対するよりも好意的に書かれた。一方、福田も堺が関係する社会主義者の書籍を多めに買い求めたり、慶応の講演者として堺を紹介したり、ブレンターノ宛に「平民新聞」創刊号の切り抜きを送ったりした。『資本論』の高畠素之との翻訳も堺の労あってのものとした。
吉野作造は、黎明会発足の陰に堺の動きがあったのではと見ているが、堺はかねてから福田との連携を望んでいたようである。しかし、「解放」の計画において、主筆=福田、編集長=堺と構想されたが、堺の言によると「福田の江戸っ子通有の多少の侠気と野次性が逆様に発揮され」、決裂してしまう。そして、堺は「改造」大正8年12月号に「福田時代から河上時代へ」を投ずるのである。のちに福田は堺の入獄中、堺の妻子を助けることもしたが、堺の心は解けることはなかったようである。
福田の人となりは、堺も指摘するように、良くも悪しくも江戸っ子気質、『近代日本における「フンボルトの理念」─福田徳三とその時代─』を著した菊池城司氏は、福田を「毀誉褒貶の人」「江戸っ子のクリスチャン」と評している。短気で攻撃的、傲岸不遜、ペダンチックで老獪、誤解を招きやすく、敵も多い。反面、口調はべらんめえで小気味よく、さっぱりした気性、ざっくばらんで天真らんまん、熱血漢で世話好き、人間味あふれる人物と、心酔者も多い。
母親がクリスチャンであったので、早くから教会に通い、学生時代はYMCA活動やセツルメントに熱心であった。トマス・ア・ケンピスの『キリストに倣いて』を英文で精読したのもこの頃のことである。末は牧師か神学者かと嘱望されたが、経済学に邁進してからは教会から離れ、酒は飲む、煙草は吸うといった具合であった。しかし、聖書は終生かかさず読んだ。堺の『売文集』に寄せた巻頭の「識らざる神」は、使徒パウロがアテネでなした演説(『使徒行伝』一七章)を引き、「君は予に取りて『識らざる神』にして、売文集は『識らざる神にと刻書し祭壇』なり云々というものである。
 〔かなざわ いくこ/実践女子短期大学非常勤講師〕