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  • PR誌『評論』183号:『マルクス=宇野経済学とともに』とその周辺

『マルクス=宇野経済学とともに』とその周辺

柴垣 和夫

今年、2011年の1月に私は満77歳の喜寿を迎えた。この機会に、これまでに行った講演や、学術論文以外のわれわれの業界用語でいう雑文のうち、多少とも残す価値があると思ったものをまとめてみたのが本書である。「講演と論説」編に収録した「知識人の資格としての経済学──マルクス経済学の効用」では、経済学とその研究対象である資本主義社会についての私の理解を、同じく「大学生活の半世紀──武蔵大学最終講義」では、私の研究遍歴を概観していただけるだろう。ほかに「政治・経済・社会評論」「往時旧懐」「今は亡き師と友」の三編からなるが、ここでは本書の「周辺」として、「まだ生きていて活躍している」友人にかかわる幾つかのこと、ならびに本書にしばしば出てくる酒に親しんだ場所などについて補足しておこう。
先ず、特筆すべき友人の一人が、本書の「修猷館──中学・高校の六年」に登場する佐伯康治である。彼は九州大学の応用化学の修士課程を経て大手化学メーカーに入社し、技術者・経営者として活躍した。同時に、故星野芳郎が主宰した『現代技術史研究会』の一員として、廃棄物処理のほか広い視野から現代技術の在り方について研究し、2001年には日本エネルギー学会編「シリーズ21世紀のエネルギー」の第4巻『物質文明を超えて──資源・環境革命の21世紀』(コロナ社)を、昨年10月には井野博満氏との共同責任編集で、右の研究会メンバー20余人による『徹底検証21世紀の全技術』(藤原書店)を上梓した。ところで、拙著の校正中に起こった東日本大震災で、福島第一原子力発電所の事故が「想定外」のものであるとの解説が乱舞するに及んで、私は改めて後者の書物を紐解いてみて驚いた。何と、現実はそこで「想定」されている通りに進行しているではないか。私は事故の「想定外」論のまやかしに憤りを感じるとともに、少数とはいえ原発事故の現実的可能性を警告していた技術者集団の存在に意を強くし、そのリーダーの一人である佐伯を友にもつことに誇りを感じ、かつ嬉しく思った。
彼を含む修猷館の同期生には傑物が多い。その点は、昨年在京の有志で製作した、拙文の一つの初出誌でもある『文集』からも伺うことができる。中国の宝山製鉄所建設を指導した和栗真次郎や、長年ディズニーランドのアトラクションをプロデュースした安武龍の回想は、そのうちのほんの二例である。
もう一つは、経済学の研究者仲間のことである。おおやけの活動舞台である経済理論学会は別として、私の日常的な交流の場は以下の三つに集約される。その一は、毎月第四土曜日に開催される独占研究会(世話人......高山満・鶴田満彦)である。ここは私のマルクス=宇野経済学による研究成果を試す他流試合の場であると同時に、他の学派の研究成果を吸収する場でもある。二時から六時近くまで、四時間に及ぶ報告と討論に付き合うのには相当の体力を必要とするが、議論はその後の懇親会の酒席に及ぶことも珍しくない。
その二は、三年前の2008年に宇野弘蔵先生没後30年の記念研究集会を企画した櫻井毅・山口重克・伊藤誠の三人と始めた宇野学派ないしそれに関心を持つ人々によるインターネット上のニュースレター組織で、事務局は武蔵大学経済学部の横川研究室にある (http://www.unotheory.org/)。今年度から私たち四人は顧問に退き、植村高久・新田滋・芳賀健一・横川信治を新しい編集委員とする第二期がスタートした。また、この組織と直接の関係はないが、右の研究集会での報告者を中心に、右の三名と私の四人で昨年七月『宇野理論の現在と論点──マルクス経済学の展開』(社会評論社)を編集し、自らも執筆した。
その三は、ほぼ同時期に東大を定年になった林健久・兵藤_・加藤栄一・馬場宏二が作った会である。「ケンジン会」と称していたようだが、少し後で私が参加してから「一賢人四凡人の会」(誰が賢人かは不明なところがミソ)に改称を提案し、兵藤が『日本経済新聞』2001年6月6日付け朝刊の「交遊抄」に「一賢人四凡人」と題して紹介したから、ご記憶の方もあるかもしれない。三ヶ月に一度の頻度で五人が交替で報告する研究会を持ち、その後江古田の北海という小料理屋で小宴を張るのが慣例となった。2005年の1月に加藤が難病で亡くなってからは、そのあとを佐々木隆雄が埋めている。
「周辺」ということになると、本書の中によく酒の話が出てくるので、飲み屋の話も欠かせない。学部の学生時代はカネもなかったから、せいぜい寮の同室や駒場のクラス、本郷進学後は大内演習のコンパで飲んだ程度だったが、大学院に進学してからは、ちょうど洋酒のバーが簇生し始めた頃で、友人と連れだって(ときには一人で)訪れるようになった。壽屋のPR雑誌『洋酒天国』が欲しかったからかもしれない。学生時代はシングルが40円のトリスだったが、院生になって「白(60円)」に格上げし、助手に採用されて給料をもらうようになって「角(90円)」に格上げしようとしたら、遠藤湘吉先生から「角ならサントリーよりニッカが安くてうまい」と勧められて、以後「髭のニッカ」を愛飲してきた。もっとも、その後国産ウイスキーの高級化が進んだためか、「髭」を置いてある店がほとんど無くなり、また私の嗜好も還暦を過ぎたあたりから蒸留酒から醸造酒(日本酒とワイン)に変化したので、最近ではほとんど飲む機会がない。
いま、この半世紀よく通った店を、居酒屋・バー・スナックなどの種別や時期を無視して列挙してみると、本郷ではトップ・大松・松好・万里・あくね、中央沿線ではレインボー(中野)・グルーベ(高円寺)・サラーエ・ブーケ(阿佐ヶ谷)・里(吉祥寺)、六本木では嵐が丘・菩提樹・ボナセラ、新宿では御苑前の飛騨屋ならびにゴールデン街のひしょうと花の木、池袋では二つの部屋、銀座新橋では桑の実・マルモ・グレ・ヘイグなど21カ所に及んでいるが、現存しているのは五指に満たない。多くの店の客にはいわゆる文化人が多かったから、ご高齢の方には思い当たる店があるかもしれず、往時を偲んでいただければ幸いである。
〔しばがき かずお/東京大学名誉教授〕