布施辰治と明治大学

山泉 進

布施辰治は、1880(明治13)年11月、宮城県牡鹿郡蛇田村(現、石巻市)に生まれた。明治大学の前身、明治法律学校はその翌年1月、東京の有楽町に誕生した。年次は代わるものの月日でいえば2カ月も違わないということもあって、明治大学に所属する教員としては、この二つのことが重なってみえてくる。昨年には、布施辰治の生誕130年、また「韓国併合百年」を記念して、池田博穂監督によるドキュメンタリー映画「弁護士・布施辰治」が完成され、現在も各地で上映されている。それより前の昨年3月、お孫さんにあたる大石進さんにより同題の評伝が、年末には日本経済評論社から『布施辰治研究』が刊行され、忘れかけられていた人権派弁護士、布施辰治の名前も少しは知られるようになってきた。
布施辰治が復活する直接的なきっかけは、2004年10月に韓国政府から日本人で初めて「建国勲章」を授与されたことにあった。それ以前、2000年2月、韓国MBSテレビは、「発掘・日本人シンドラー布施辰治」と題した一時間番組を放映した。そして、生誕120年を記念して韓国の国会議員会館において「布施辰治記念シンポジウム」が開催され、有志の人たちによる強い推挙運動があった。2003年、弁護士出身の民主党、盧武鉉が大統領に就任し「建国勲章」の授与を決定した。その受章決定をうけて、明治大学法学部では記念シンポジウムを企画し、韓国からも2人のゲストを招聘して、2005五年1月、駿河台リバティーホールにおいて「布施辰治・自由と人権」と題するシンポジウムを開催した。
明治大学では、2006年4月、大学史資料センターのなかに、私が部会長となって人権派弁護士研究会を組織し、布施辰治・山崎今朝弥・吉田三市郎・平出修などの明治大学出身の人権派弁護士たちの活動を検証してきた。その成果の一部は、『明治大学史紀要』(第12・13号、2008・2009)に発表されている。今回の『布施辰治研究』の出版は、それらの諸論考を土台にまとめ直したものである。
知られているように、明治大学の校歌は、「白雲なびく駿河台」で始まり「権利自由」「独立自治」と謳っている。この歌詞自体は、大正期にはいって、児玉花外の詩に西條八十が補作してつくったものであるが(作曲は山田耕筰)、明治法律学校は当時の自由民権思想を受け継いだフランス法の教育を建学の理念とした。そのこともあって、明治法律学校からは弁護士となるものが多く、とりわけ1903(明治36)年の明治大学への改称の時期には、布施辰治など多くの人権派弁護士が誕生した。ちなみに布施が卒業した1902(明治35)年の判事検事登用試験の合格者138名、そのうち明治法律学校出身者は66名で半数近かった。布施は判検事試験に合格後、宇都宮地方裁判所の司法官試補となった。翌年、検事代理として、ある母親の3人の子どもに対する殺人未遂事件を担当し、ふしだらな亭主の罪を問わずして母親に罪を科すことの非情さに堪えずして辞職、「国家至上主義」のもとでの「官吏」たることはできないとする「挂冠の辞」を書いた。
1920(大正9)年、「自己革命の告白」を個人誌『法廷より社会へ』に発表、「社会運動の闘卒」となることを宣言、人権蹂躪、社会的弱者、言論弾圧、無産階級擁護の闘いに専念することを誓った。その活動は、大杉栄や関東大震災の戒厳司令官・福田大将の暗殺を謀った和田久太郎らの弁護から、自由法曹団や解放運動犠牲者弁護団での活動に及んだ。日本共産党事件の弁護活動のなかで、布施自身も1932(昭和7)年には弁護士資格を剥奪され、1934(昭和9)年には治安維持法に連座し、収監されるという弾圧をうけた。また、布施の活動は国内にとどまらず、植民地台湾における農民運動や朝鮮での独立運動の弁護にまで及んでいる。
1953(昭和28)年9月、布施辰治は満72歳の生涯を閉じた。東京、池袋の常在寺にある布施辰治の墓碑銘には、「生きべくんば民衆とともに、死すべくんば民衆のために」と刻まれている。
[やまいずみ すすむ/明治大学副学長・法学部教授]