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  • PR誌『評論』181号:ゲーテの齢を越えて──小林 昇先生をいたむ

ゲーテの齢を越えて──小林 昇先生をいたむ

渡辺 尚

小林先生の逝去を、わたくしは福島大学の森良次さんからのEメイルで知らされた。家でとっているさる全国紙を慌てて見直したが、先生の訃報を見出すことはついにできなかった。日本のメディアの知的関心の貧しさに寒々としたものを覚えたが、ともあれ、森さんのご高配のお陰でわたくしは通夜の席に連なることができたのである。
書斎で本棚を背にゆったりと腰をかけた先生の大きな全身写真を前にすると、斎場の護国寺桂昌殿がなにやら先生の書斎であるかのように見えてきて、先生を送るにふさわしい書斎葬というべきものだなと思ったことだった。そうしてわたくしは、最後に言葉を交わしたときの先生の表情を遺影の笑みに重ねながら、儀礼を超えて先生と呼んだ最後のお一人が、いまや追憶のなかでのみ再会できる存在に変わったことを受け入れようと、気持ちを整えていったのである。
「わたくしもついにゲーテの齢を越えました」、10年前先生からいただいたお便りにそう書きそえられてあった。そのゲーテより長生きした先生から、「東京に戻ってこられたのなら一度お会いしたいもの」というお誘いを受けて、大泉学園町のお宅に初めて伺ったのが9年前のことになる。2階の書斎の上がり口の書棚にケインズ全集と鴎外関連文献が並んでいたこと、水絵夫人が難儀さをおし隠すようにして供応してくださったことなどが、とりとめもなく思い出される。
わたくしが先生から面識を賜ったのは、昭和37年、大学院に進学した年だから、半世紀近くも前になる。この年の5月、松田智雄教授を中心にして若手が結集した「ドイツ資本主義研究会」(ADWG)が発足し、小林先生も顧問格で創立会員に名を連ねておられた。先生ご自身、昭和40年1月の第13回例会で「List-Archivについて」と題するご報告もなさっている。この会を通して恵まれた個人的つながりに励まされて、わたくしはやがて乏しい研究成果をそのつど先生にお送りするようになった。それは先学に対する後学の自己点検報告のようなものであったが、誰よりも先に先生から届くあの典雅な書体のお礼状に、かならず一言添えられている内在的褒辞をひそかに期待してのことでもあった。幸いにして大学の一隅に職を得たわたくしが、先生が接してくださったように自分もまた後学に接したいと心がけるようになったのは、先生から教師としての手ほどきも受けたお陰である。
それにもかかわらず、先生に対する私の関係は私淑の域を出るものでなかったと思う。それは、わたくしが先生の授業を学生として聴いたことがなく、また自分は経済史家であって経済学史家ではないという外面的理由だけからでない。どうやらわたくしは、先生を無意識のうちに少し離れて仰ぎみる位置に己を置いてきたようなのだ。わたくしにとり大塚・共同体論、松田・地帯構造論、小林・国民経済論は、資本制経済空間に適合的な公権力空間の形成過程を探るという、批判的継受を目指すべき広大な問題領域の三正面を成す。この偉大な3人の先達のうち、小林先生が文献の制約から研究領域を経済史から経済学史に移されたのは、菲才のわたくしにとりもっけの幸いだった。三正面を同時に視野に収められるほどの複眼的視力に乏しいわたくしは、先生がマルクスとケインズの理論を農具として耕してこられた、「イギリス重商主義とスミスとリストが成すデルタ」に足を踏み入れることを、先延ばしにする口実を見出せたからである。経済史への経済学史的接近に呼応した経済学史への経済史的接近を求めた先生からすれば、なんとも不甲斐ない後学の逡巡であっただろうが。
しかし、己は「デルタ」に足を踏み入れずとも、そこで黙々と耕す人の姿はわたくしの眼を捉えて離さなかった。その鮮やかな身のこなしと言ったら!呼吸を鎮めた筆の運びが篆刻する言語空間の明晰さ、豊饒な語彙から選び抜かれた和語と漢語の対照の妙趣、読点配置と助辞駆使の高度な技法が発する論理的リズム感!歌人・小林昇による経済学者・小林昇の自己表現に対する細心の制御が、学術言語としての日本語の精度と品格を極めた文体を生みだしている偉観に、わたくしは見とれるばかりであった。
「社会科学の達成もまたその文体とともにある」との信念の持ち主が、その文体によって表現するものもまた、思想の深みに際立って均斉のとれた体形を潜ませていた。一兵士として加害者であったという罪責感が、少年時代から傾倒したドストエフスキーや鴎外の文学的素養に動かし難い量感を与え、それが一切のイデオロギーに対する学問の内面的自由を自らに保障する対錘となっている様は、わたくしに知識人の条件を考えさせずにおかなかった。先生のイデオロギーへの根源的懐疑の対象に、むろん宗教のドグマも含まれる。出征地ベトナムの営内で戦死者のために『曹洞修証義』を唱えたほどの先生だから、仏典や仏教書の素養も並大抵でなかっただろう。しかし、先生の峻烈な倫理観のなかに何らかの宗教的匂いをかぎとることは難しい。
先生のお宅で、大塚教授の思い出話がひとしきり続いたあと、「クリスチャンであることが大塚さんにとって制約になりましたね」と、ふと洩らされた言葉は忘れ難い。「大塚さんにとってわたくしはどうやら煙たい存在だったようです」という回顧に、もっとも近しい兄弟子に対しても、和して同じない関係を貫いたことへの控えめな自負が語られていた。大塚教授がカルバンの、松田教授がルターの側に立ったとするならば、小林先生はエラスムスに近いところにいたのかもしれない。
2年前の6月、わたくしはある意図をもって再度先生のお宅に伺った。水絵夫人はもう永い眠りにつかれ、かわってご息女がお茶を入れてくださった。「90歳まで生きるとは思いもよらないことでした。小文や返信は書きますが、研究は疲れます」という述懐から、この精励無比な篤農家の満ち足りた疲労感が伝わってきた。「またお出でください。わたくしの方は時間がたっぷりありますから」、これが先生からいただいた最後の言葉である。わたくしが永の暇乞いのために参上したことをおそらく察知した上での、包みこむような笑顔と懐かしげに響く口調をもって、であった。わたくしがゲーテの齢を越えても、先生と同じ感懐を抱くことなどとうていできまい。しかし、いつかそのときが来たら、せめてわたくしも親しい人たちにこのような言葉をかけたいと願う。
百拝
[わたなべ ひさし/京都大学名誉教授]