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  • PR誌『評論』180号:福島自由民権と門奈茂次郎4 暗殺か挙兵か

福島自由民権と門奈茂次郎4 暗殺か挙兵か

西川純子

茂次郎の意見は次のようなものであった。「余が持論として封建藩政の時と異なり、明治に入り全国割拠を許さざる後は、佐賀に、萩に、薩摩に事を挙ぐる者何れも惨敗を招き大西郷の如き勢力を以てすら敗北に終わりたるに鑑み、到底土佐や奥羽より小数の革命軍を以てするも全然成功の見込なく、よって匕首を以て不意に心臓を刺すが如き手段を採るの外なく、即ち中央政府のある東京に於いて彼の神風連が熊本鎮台を不意に襲撃して、城将種田少将を斃したる筆法に則るべき、ソレには自由党少壮の怨歌慷慨の士を東京に集め、労働によって糊口を支え真の領袖株以外の者には絶対に秘密を明かさず、只半ば私学校風の寄宿舎を設け同志7、800の数に達すれば、突嗟に蹶起して抜刀隊を急に編制する為め、豫め当時、市内の刀剣商を、調査し置き、挙兵、同時に手分けして、刀剣を徴発し、すぐ討ち入りの覚悟なり」(門奈茂次郎「門奈氏の体験記録」『痴遊雑誌』第4巻3号、1938年3月)。
これは茂次郎がはじめて口にした東京挙兵の企図であった。テロに反対してクーデタを主張したということであろうか。この企てが決して思いつきのものでないことは、茂次郎が板垣自由党総理を自由新聞社に訪ねていたことからも推測できる。応接室で板垣と対座した茂次郎は「我党の勢力を張るために、東京に多くの志士を糾合の予定でありますが、アナタに於いても、便宜を与えて下さる訳に行きますまいか」と述べた。便宜とは、当時、築地にあった自由党青年の寄宿所、有一館を拡張するための資金援助を意味していた。板垣は「君方は、僕に、表面、総理の任を負わせ、裏面のことを、一々持込まれては困る」と答え、茂次郎は「お困りならば御依頼はいたしません」と述べて辞去している(同上)。
それにしても、福島の獄窓で23年まで時機を待とうとしていた茂次郎が東京挙兵の策を口走るとは、横山たちの差し迫ったテロ計画が彼の冷静な判断を狂わせたとしか思えない。横山たちは茂次郎の主張を容れて暗殺計画を変えようとはしなかったが、茂次郎の策を否定もしなかった。結局、順序として栃木県庁の襲撃をまず決行するが、あとは門奈に任せようということになり、茂次郎は福島行きを取り止めて、ひとまず彼らと行動を共にすることを決意したのである。テロにせよクーデタにせよ、軍資金が必要である。一同が合意したのは、革命のためには掠奪という非常手段も止むなしという点であった。大義のためには手段を選ばずというこの思い上がった決断が、後に茂次郎にとっての命取りとなる。

小川町質屋押し込みの一幕
掠奪計画が実行に移されたのは、明治17年9月10日である。稲荷神社で縁日の立つ日を選んで、神田小川町の山岸質店に河野広躰、小林篤太郎、門奈茂次郎の3名が押し入った。小柄な横山信六は見張り役であった。しかし、素人強盗ぶりを見破られたか、質屋の主人は落ち着き払って、5円80銭しか入っていない銭箱を差し出すなり、それ以上はありませんと言うばかりであった。このときの様子を小島一男は次のように描写している。「3人はそんなはずはないとなおも屋内を物色していたが、そのときたまたま表門を叩く者があった。驚いた河野と門奈は店の小僧に裏口の戸を開けさせ、外で見張りに立っていた横山とともに逃げ、小林は表門より飛び出した。小林はそのまま雑踏の中に消えたものの、裏門から逃げ出した3人の内、門奈は抜刀したまま雑踏の中を駆け抜けようとしたからたまらない。たちまち大衆は右往し、左往して大騒ぎとなった。やがて門奈も、抜き身の刀を手にしたままでいることに気がついて刀は捨てたものの、あわてて小川町の警察署のある方向に逃げたため、中から2人の巡査が躍り出してきて、彼らの行く手を遮ってしまったのである。止むなく彼らは、爆裂弾を一発警察署の方にむかって投げつけ、そのたじろぐ隙に逃げようとしたが、脚気のために思うように走れない門奈は、とうとう追跡してきた矢野伝之助という巡査に背中を斬られ、そのひるむところを逮捕されてしまった」(小島一男『獅子の時代に生きた会津の群像』、歴史春秋社、1981)。逮捕された茂次郎は名を栃木日光町の山室辰四郎と偽って白を切ったが、腋下に結びつけてあった爆弾を発見されて万事休すとなった。この惨めな結末について茂次郎はこう述べている「斯く大業遂行の初歩に於いて手段の為に蹉跌を来したるは、志士の身に取て、痛恨極まりなく東京挙兵の企図は粉砕して一場の夢と化せり」(門奈茂次郎「東京挙兵乃企図」)。
[にしかわ じゅんこ/獨協大学名誉教授]