『張謇と渋沢栄一』刊行に際して

井上潤

近年、さまざまな分野で渋沢栄一の事績・思想が取り上げられるなか、本年5月、『張謇と渋沢栄一──近代中日企業家の比較研究』と題された一書が刊行された。
張謇とは、中国江蘇省南通を中心に活躍した実業家であり、日本の渋沢栄一とほぼ同時代に生き、同じような事績を残した人物である。中日両国の近代化・産業化の過程で活躍した張謇と渋沢栄一という二人の企業家の事績を比較検討した本書は、2004年に中国にて中国語で刊行された原書を日本語に翻訳したものである。
なお、日本語の翻訳出版に際しては、著者本人からの申し出もあったが、中国側の視点で論ぜられた張謇と渋沢栄一の優れた比較研究を日本で普及させることの意義を強く感じた渋沢栄一記念財団が、財団事業として刊行をサポートしたのである。日本での刊行に際して日本の状況説明で不要な部分も多く、その削除からはじまり、中国での出版以降の新たな研究成果の追加作業、日本人が違和感なく読める日本語にする作業等に予想以上の時間を費やすこととなったが、ようやく刊行にいたったのである。
著者は、北京の中国社会科学院世界経済與政治研究所教授の周見氏である。神戸大学、青山学院大学にて客員研究員としての経験をお持ちで、2000年から本格的に本書の原書を執筆されはじめたが、ちょうどその頃に渋沢史料館に来館され、当時学芸員として対応した私との最初の出会いがあった。それまでに中井英基氏が『一橋論叢』に書かれた「張謇と渋沢栄一」を通して張謇を知る程度の私にとって、周見氏との出会いは、張謇という存在ならびに渋沢栄一と他国の実業家との比較検討の意義を強く感じた出会いでもあった。
それから数年経った2005年、5月21日から23日にかけて中国南通市の文峰飯店会議場を会場に渋沢栄一記念財団と張謇研究センターの主催、復旦大学歴史学部・復旦大学日本研究センターの協賛による2005五年渋沢国際儒教セミナー「中日近代企業家の文化事業と社会事業──渋沢栄一と張謇の比較研究」を開催したが、同セミナーに論文展示ならびにコメンテーターとして参加された周見氏との再会があった。
同セミナーでは、中国での渋沢栄一研究の広がり、そして深まりつつある状況を驚きとともに確認した。その先駆者としての周見氏が、張謇と渋沢栄一の比較研究を既に一冊の著書にまとめられたことを知り、さらに、同氏が、日本でも出版して普及させたいとの意向とともに日本語に訳された原稿を弊財団理事長に手渡されたのも、このセミナーの時であった。
さらに2008年12月6日、渋沢史料館にて「渋沢栄一研究の過去・現在・未来」と称するシンポジウムを開催した。 
さまざまな分野で渋沢栄一の事績・思想が近年多数取り上げられることを受けて、渋沢栄一に関する著作を著された国内外の研究者からその研究成果を報告してもらい、渋沢研究をより一層深化させ、現状と課題について議論を行う目的で開催したのである。
第一セッションの「渋沢栄一研究の現状──最近の渋沢栄一記念財団の取り組みから」では、2006年に中国・湖北省武漢にある華中師範大学の渋沢栄一研究センターからも事業内容の報告をいただいた。第2セッションは、「渋沢栄一研究のフロンティア」ということで、渋沢栄一に関する著作を著された日本、中国、フランスの研究者の優れた研究成果の報告後、イギリスの討論者が加わり討論を行うものであった。この中で周見氏が、今回刊行された著作について報告されたのである。
討論の中からは、国際的な比較研究から新たな発見が導かれるという評価を多くの方からいただけた。
比較という意味では、2009年「日中米の近代化と実業家」と題した近代化・産業化の担い手となった実業家の役割等を軸にして、日・中・米三国の比較検討を試みた展覧会、シンポジウムを、三国を巡回しながら開催した。実業家の事績を比較するというこれまで、あまり行われなかった領域であるが、今後もチャレンジしていきたいものである。と同時に、先に紹介した各国で出版された渋沢栄一関係文献を、早く手軽に日本でも読めるような状況となることを期待したい。
[いのうえ じゅん/渋沢史料館館長]