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書庫のなかの発見──クニースの講義ノートなど

八木紀一郎

今年の3月末に京都大学を定年退職した。前任校の岡山大学から移ったのが1985年の春だったから、四半世紀を吉田山の麓で学究生活をおくったことになる。
京大での愉しみの一つは書庫のなかを探索することだった。経済学部は大正8年(1919年)に法学部から別れたが、書庫は現在でも共用になっている。地下の第二層から地上の第七層まであるが、法学部・経済学部あわせて120万冊近い蔵書があるので、それでも手狭になっている。書庫としてはもう一つ、大正時代に建てられた法経新館の地下(半地下)に、未整理の戦前の書籍・新聞・雑誌類や、経済学部の資料室が受け入れた資料類を置くスペースがあった。ここでは勘をたよりに歩きまわるしかなかったが、棚ごとに年代とジャンルを違えた文献資料の堆積に出会うことができた。古い新聞や古い統計雑誌を束ねている紐を少し緩めて、そのなかをのぞいたりすると時間を忘れそうになった。経済学文献を離れると、単独でほぼ100万冊の蔵書をもつ文学部の地下書庫は、広大な地底の迷路のような魅力があったし、部局に所属しない80万冊の蔵書がある中央図書館の地下書庫の探索も意外性があって面白かった。
幸運と言わざるをえないのは、経済史家カール・ビューヒャーの文庫のなかに、マックス・ウェーバーが聴いたと思われるカール・クニースの経済学講義のノートを見つけたことである。歴史学派の経済学者カール・クニースはハイデルベルクで1866年から30年間にわたって経済学、財政学、行政学などを教えた。マックス・ウェーバーはハイデルベルク大学に在学していた1883年に、クニースが毎年夏学期におこなっていた経済学の概論講義(「一般経済学」)を聴講している。これは、ウェーバーが学生時代に聴講した唯一の経済学の講義で、彼の経済学に対する理解の基礎はかなりの程度この講義によって与えられたと考えられるが、クニースは経済学概論にあたる著作を公刊していない。
ビューヒャー文庫で見つかったのは1886年の講義録で、ヴォルフガンク・ミッテルマイアーという学生によって目次4ページ、本文154ページにわたって丁寧に筆記されている。ウェーバーが聴講した3年後の講義録であるが、内容的にはほぼ同一であると推測して差し支えないだろう。
私のこの資料の探索は、クニースの『貨幣論』についてのコメンタールを書く機会があったことをきっかけとしていた。京大所蔵のクニース著作を探し始めると、中央図書館にあった戦前旧カタログに Knies, Allgemeine Volkswirtschaftslehre. Manuskript. 4, 154 p.とあるカードが見つかった。それは、1921年に三菱合資の資金援助を得て経済学部がビューヒャーの文庫を購入した直後に作成されたカードであった。しかし、法経図書室のカード式の戦前洋書カタログでは該当のカードは見当たらず、また1970年に経済学部が刊行した『ビューヒャー文庫目録』にも記載がなかった。古参のライブラリアンに尋ねると、ビューヒャー文庫の目録を作成したときに残ったものがあったという。この情報をもとに書庫を数回探し回って、書庫の隅にあった箱の中にあった現物をついに見つけ出した。1995年のことである。
講義の筆録者ヴォルフガンク・ミッテルマイアーは、ビューヒャーが1882年に結婚した妻エミーリエの従兄弟で、後にハイデルベルクの刑法の教授になっていた。ビューヒャーとミッテルマイアーは個人的にも親交があったことがビューヒャーの『回想録』にも記されているから、法学を専攻したミッテルマイアーが必要の減じたクニース講義録を経済学者ビューヒャーに贈ったとしても不思議はない。
それは、経済学の基礎概念からはじめて、生産、労働、取引、価格、貨幣、信用、分配、所得、消費と概説した完成度の高い講義であった。歴史学派の驍将としてのクニースの立場は、経済学における「自然法則」という考えや「自利心」の仮定を批判して、経済学における社会的要素を再三強調しているところに現れている。それはウェーバーの経済学観とも合致していると思われるし、またウェーバーとの関係を離れても、歴史学派の経済学者による体系的な経済学講義として価値がある。それで、私は溝端剛さん(現在は関西福祉大学)に解読を依頼して、解題とともにThe Kyoto University Economic Review, vol. LXIX (2000年)に公表した。そのとき、海外で他に存在するクニース講義録のコピーを二点取り寄せたが、これは比較にならないほどお粗末なものであった。最近、ウェーバー研究者のキース・トライブに会うと、彼も同様な講義録を見つけたと言っていた。ウェーバー自身のノートは残っているのだろうか。
最後に、この講義録にかかわったやりとりを二つ付加しておきたい。第一は、まだご存命であった出口勇蔵先生とのそれである。出口先生はクニースの経済学と価値論を正面からとりあげた論文を戦前の『経済論叢』に掲載されておられるのに、この講義録の存在をご存知なかった。驚きを隠されないお手紙には、その当時は、いまでも書くことを憚られる理由で学部の蔵書を自由に利用できなかったことをご理解いただきたいと弁解のことばが記されていた。どのような理由なのであろうか?経済学部の蔵書のなかには発禁本も含む左翼文献が多数存在するので、若い教員の利用には制限があったのであろうか?第二は、ミッテルマイアーの子孫とのやりとりである。私は、講義録の解読・公表について許可を得るためにミッテルマイアーの子孫を探索した。その方法は、ドイツの電話帳を入手して、ハイデルベルク在住のミッテルマイアー姓の人物の住所に照会状を出すことであった。約10人宛てに照会状を書いたが、正直のところ成功するとは思っていなかったが、それが見事に成功した。ハイデルベルクから転送されて、ローマに住まれている孫の方から返書をいただき、講義録の公表を歓迎していただいた。この方は、なんと10代にわたるミッテルマイアー家の家系図まで送ってくださった。学者や高級公務員を輩出した名家であった。
[やぎ きいちろう/摂南大学経済学部]