• TOP
  • PR誌『評論』
  • PR誌『評論』179号:歴史と現在の往還1 再考:1990年代はどのような時代だったのか  ──歴史研究の検証のための小さな場所

歴史と現在の往還1 再考:1990年代はどのような時代だったのか  ──歴史研究の検証のための小さな場所

大門正克

『評論』に連載したシリーズ「歴史への問い/現在への問い」のなかで、私は、1990年代という時代にこだわり、1990年代の歴史研究の特徴について考えようとした(シリーズは、『歴史への問い/現在への問い』校倉書房、2008年、に収録した)。
シリーズを通して、同時代の歴史的検証を行ってみた。思考を進める場所は二つ。阪神大震災後の震災経験と学童クラブの移転問題だった。震災経験についてはシリーズの1回目でとりあげた。文章にしなかったものの、学童クラブは、私が1990年代について考えるための、もうひとつの小さな場所だった。
シリーズ執筆から10年余りが過ぎた。1990年代以降のグローバル化の時代を見通すために、ここでは学童クラブの移転問題を通して、あらためて1990年代という時代と歴史研究の特徴について考えてみたい。
       *
シリーズを書き始めたのは1997年。その年、私は偶然に長男の通う「さくら第一学童クラブ」の父母会長をしていた。
学童クラブは小学校低学年が放課後に通う場所であり、さくら第一学童クラブは、小学校の校舎1階の空き教室を使っていた。市は市立幼稚園を一時的に小学校に移す計画を立て、そのあおりを受けて学童クラブを校舎3階に移す案が出された。子どもが遊ぶ学童クラブが3階に移れば、怪我の危険性が高くなる。学童クラブが危ない。
突然の事態に父母会は児童福祉課長を招いた説明会と臨時総会を開いた。課長からは、市の財政逼迫で学童クラブの新設は厳しいと言われたが、危険になる学童クラブを放置はできなかった。長い話し合いの末に、父母会は移転に反対し、学童クラブを校庭に新設する請願署名を集めることを決めた。請願署名は1ヶ月で1万3000余りに達し、市議会に提出された。
移転問題にとりくむなかで、市との交渉や署名集めなど、父母会で集まる機会が増えた。父母会はまなじりを決することなく、楽しみながら活動を続けた。請願は市議会で採択され、市は、最終的に学童クラブの新設を翌年度予算に盛り込むことを決める。さくら第一学童クラブは、こうして校庭隅に新設なった建物に移転した。
       * 
1997年は新自由主義的な風潮がきわめて強い年だった。グローバル化が進むもとで、学問の世界では経済学の新古典派や社会学のシステム論が隆盛し、世の中では「自己責任」が広く用いられるようになっていた。人びとは余裕のない仕事や競争にさらされており、そこから国家や社会の保護に依拠しない強い個人への共感と、その裏腹として国家の保護に依拠する人への厳しい排除感覚、現実には強い個人として競争で勝ち上がれない脱落感などがないまぜになってひろがっていた。
いま振り返ると、父母会での活動を通じて当時の私が考えていたことは、次の4つに整理できるように思う。
1つ目は都市における共同性について。私は、保護者、父母会、学童クラブの3つを通して都市の共同性について考えていた。さくら第一学童クラブの保護者には、新中間層が多くて階層的な差異が少なかったので、協力関係を築きやすかった。だが、グローバル化と新自由主義の波は保護者にも及び、海外長期駐在や公務員の配転などがあらわれていた。生活条件が厳しくなるなかで、都市では新中間層の利害が声高に強調されるようになった。
父母会の役員会は、必ずあるファミリーレストランで開かれた。事務所などをもたないことは、父母会の活動の継承を困難にする反面、しがらみにとらわれない自発性を引き出すことにもつながる。固有の場所がないことは両刃の剣であり、自発性は人びとの関係の希薄さと裏腹だった。保護者には時代の波が及び、父母会には都市の共同性が反映しているように思えた。
移転問題は、保護者が学童クラブと父母会の存在を再認識する重要な機会になった。学童クラブは、子どもの成育を親や学校だけに任せず、クラブの指導員や児童館、学校、行政、保護者、子ども同士の共同でみる場であり、父母会は、働く親同士が子どもの成育を支える場だった。新自由主義の風潮が強まるなかで、移転問題は、学童クラブと父母会が担う大事な役割に気づく契機になったのである。
2つ目に、右のことを私は人と人の関係性としても考えていた。言語論的転回の議論以降、関係性を示す既存の概念をそのまま使うことは難しくなっていた。私は、既存の概念を演繹的に使わずに、父母会の活動を通して人と人の関係を再考しようとした。そのひとつに「私」と「市民」「国民」のあいだにおける「つながりのなかの矛盾」があった。「私」の領域では自己責任が、「市民」の領域では新中間層の利害がそれぞれ強調されており、両立は難しくみえた。だが、「私」を私ひとりで支えることは難しく、「市民」の利害だけで社会が成り立つことも難しい。
こうしたとき、子どもの成育を共同でみる学童クラブと、自発性に依拠した父母会は、「私」と「市民」をつなぐ大事な場であると思われた。つながりには矛盾があるが、その矛盾を乗り越える場もつながりのなかにしかない。関係性は一方向だけから見るのではなく、相互の関係に含まれた矛盾の動態的把握こそが必要なのではないか、私は父母会の活動を通して関係性をめぐる認識を更新しようとしていた。
3つ目は父母会のとりくみの正当性について。私は社会運動における正当性の議論を援用して考えていた。移転反対の運動に楽しくとりくめたのは、「学童クラブは危ない」という訴えがとりくみの正当性を広く確保し、保護者が自信をもてたからであった。
4つ目は、父母会のとりくみの意味について。父母会のとりくみは、地方自治体対社会運動という対抗軸の中で展開した面があり、大学生・大学院生の頃の私であれば、父母会を対抗的な運動として位置づけていたと思う。
だが、1997年の私は、対抗的な運動としてよりも、都市で自発的な共同性を創出し、官僚的統治になりがちな市役所の行政に社会の共同性を埋め込み、市役所を公共的なものへと変えるところに父母会の活動の意味を見出していた。父母会の活動は、多様な立場の人で成り立つ学童クラブのような場所を、社会の公共的な広場として育てるための試みにほかならなかった。
歴史研究のなかで共同性と公共性について考えたことが、社会運動や共同性に関する私の認識を鍛え、社会運動についても対抗的側面だけでなく、公共的関係とのかかわりについて注意するようになっていた(大門正克『近代日本と農村社会』日本経済評論社、1994年、など)。
       *
新自由主義の風潮が強いもとで現実にとりくんだ共同性創出の模索。父母会のとりくみは、同時代について考え、国家と社会の関係を再考する重要な導き手になった。つまり、新自由主義が猛威をふるうなかでも、社会のなかに自発的な共同性を育てることが必要であり、可能ではないのか、そのことは市場原理主義や国家の抑圧を制約する方向性を考えることにつながるのではないかということである。
こうした現在認識は、翻って歴史を見る視点にも応用すべきだと思われたが、当時の国民国家論は極端に社会を忌避する議論として私の目に映った。国民国家論の隆盛には特有の時代背景があるはずであり、私は国民国家論の背後に新自由主義と方法的個人主義の影を観測した。
今の時点から振り返れば、国民国家論と新自由主義のかかわりはもっと丁寧な議論が可能なように思われるが、当時、私のような議論は皆無に等しかった。それを考えれば、私の21世紀に入り、格差と貧困に焦点が合わされるようになってから、議論の潮の流れが少し変わってきた。現時点で痛感するのは、1990年代の歴史認識論争と、新自由主義の対極に格差・貧困がつくりだされた現実の両方をふまえたうえで、あらためて共同性や公共性をめぐる歴史研究を進めることである。
その際に必要なことは、社会に含まれる矛盾やしがらみの歴史的意味を解明するだけでなく、その矛盾を乗り越えようとする動きにも目をこらし、その動きがまた矛盾を随伴することに留意するといった、矛盾の動態的変化を解き明かす粘り強い思考である。このような粘り強い思考が歴史研究にも必要なことに気づいたのは、父母会のとりくみと公共性をめぐる認識がひとつの大事な経験としてあったからである。
シリーズ後の私は、1930~50年代に焦点を合わせ、そこには総力戦から占領への転換と、大日本帝国の崩壊から東アジアの冷戦・アメリカ支配への転換の二重の転換過程が含まれていること、それをふまえて1950年代における社会の共同性の歴史的特質を、岩手県の農村や在日朝鮮人の集住する東京・枝川などで考えようとしている(『戦争と戦後を生きる』小学館、2009年)。そこで私が留意していることは、歴史過程を相手にする歴史研究には、矛盾を解き明かす粘り強い思考が必須だということである。
1997年の移転問題にとりくんださくら第一学童クラブの父母会。1990年代という時代と歴史研究の方法を考察し、自分自身の歴史認識をとらえ直すうえで、父母会は私の大事な小さな場所だったのである。    [おおかど まさかつ/横浜国立大学教授]