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  • PR誌『評論』178号:思い出断片 (12)  東大YMCA寄宿舎生活の頃

思い出断片 (12)  東大YMCA寄宿舎生活の頃

住谷一彦

私が東大YMCA(基督教青年会)寄宿舎に入ったのは、1946年3月だった。46年秋に復員した私は、その年の12月クリスマスの日に洗礼を受けた。そのあと1月末にYMCA寄宿舎への入舎希望を提出し、3月はじめに舎生理事たちの審査を受けた。審査は厳しいものだった。松山高校の先輩だった岡本理事が何かと助けてくれたおかげで、無事入舎できた。YMCA寄宿舎は本郷追分町にあり、東大に通うには歩いて10分くらい。大変便利な位置にあった。さらに私にとって幸運だったのは、舎監が劇「夕鶴」で知られる作家木下順二であり、3階にパスカル研究で有名な森有正東大助教授が住んでいて、うしろにある2舎には進駐軍に家を接収されて家族とともに寄宿していた大塚久雄先生が居られたことである。私は大塚先生に私淑し、先生の講義は欠かさず出席した。あるとき21番教室で有名な服部之総さんの講演があり、それを聴いていたら痛烈な大塚史学批判をされたのに驚いて、息せききって帰ってから、さっそく大塚先生の部屋にお邪魔してその旨を報告したら、たまたま同席されていた内田義彦さんと顔を見合わせて「服部さんらしいじゃない」と笑われたのにホッとしたことを、今も鮮明に覚えている。私は友人と語らって、大塚先生をひっぱり出し、マックス・ヴェーバーの「プロテスタンテイズムの倫理と資本主義の精神」についての講読会をひらいた。この研究会にはYMCAの友人たちのほかに、一橋大学YMCAの弓削達君や内田芳明さん、東大法学部助手だった石田雄君などが列席した。この研究会は数回つづいたが、大塚先生が入院されてしまい、中絶してしまった。しかし、それは私にとってマックス・ヴェーバーに対して目を開かされた得難い機会となった。爾来ヴェーバーとのつき合いはつづき、今日に至っている。
YMCAの寄宿舎生活は楽しかった。
七畳あまりの個室は、当時の生活状況では大変恵まれたものだった。舎生も
多士済々、毎日誰かの室に集まって、大げさに言えば天下国家を論じて時間の過ぎるのを忘れた。とくに法学部の早川君の部屋は私たちのたまり場となった。今の若い人たちには分からないかも知れないが、主食はスイトンという醤油汁にもちをちぎったようなものが浮いている食事であり、それで足りないときは買い出しで入手したさつま芋をふかして皆で集まって食べていた。
森先生はほとんど3階の部屋にひきこもって仕事をしておられたが、食事のとき下りてきてスイトンのどんぶりを持って部屋に戻られ、そのままどんぶりは戻ってこなかった。しばらくすると当然どんぶりの数が足りなくなる。そのときは私たち舎生が森さんの部屋に行き、うず高くたまっているどんぶりをかかえて戻ってくる、ということが日常的なできごととなってしまった。森先生は、その後パリに留学されたが、そのまま帰って来られず、ついに南原総長がパリに出かけてつれて帰ろうとされたが、結局不成功に終わってしまった。森先生自身パリでの生活は大変なもので、東洋語学校の教師としての日常は苦労の多い状況だったようだ。
私は大学を卒業してすぐ名古屋大学法経学部の助手に就職し、名古屋で2年すごすことになったが、私の先生であった松田智雄先生の推薦で東京都立大学人文学部社会学科の助手になり、ふたたび東京に戻ることになった。主任教授は岡正雄先生であり、助手は私のほかに蒲生正男君、祖父江孝男君がいた。岡先生はその頃新興の学問であった文化人類学の草分け的存在で、マックス・ヴェーバーばかりやっていた私にとっては全く未知の新しい学問分野だった。当時岡先生の主導で教室をあげて伊豆半島の伊浜部落の調査を行ったが、恐らく地域調査に社会人類学的な方法を導入された調査としては我が国でも最初だったのではなかろうか。とくに実態調査はもともと調査に不向きな私の体質を根本的に変えさせるに至った。その後伊豆諸島の調査がはじまり、私は御蔵島という絶海の孤島を調査することになった。ここは24軒の家が昔ながらの慣行をまもって、その戸数を維持していた。私はその調査にのめり込んで熱心にやりすぎ、盲腸炎を起してしまった。たまたま失恋の傷手をいやしに来ていた或る大学助手の人が応療マイシンを持っていたおかげで近くを航海中だった海上保安庁の敷根に乗せられ、下田に直行し、そこの病院で手術して命をとりとめた。死体を解剖する大きな板の上で裸電球に照らされて手術されたことを今も覚えている。それは1953年のことだった。そのあと立教大学経済学部に就職できて、今日に至っている。
[すみや かずひこ/立教大学名誉教授]