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  • PR誌『評論』178号:福島自由民権と門奈茂次郎2 喜多方事件

福島自由民権と門奈茂次郎2 喜多方事件

西川純子

門奈茂次郎にとって福島への帰郷は自由民権家として孤軍奮闘、帝政党を敵にまわすことを意味していた。彼はこの時の心境を次のように書いている「自分もかねがね会津地方の士族が、三島の使嘱にて帝政党を組織し、自由党に迫害するを聞き、元来、会津士族が、鳥羽・伏見に戦いたるは、薩摩・長州との戦いにて、後に天下の大勢より朝敵の汚名をうけたるも、是れ其志と違いたるは明瞭のことなり。国事に鞅掌する者、理義によって旧怨を捨るは本懐とすべきも、藩閥の走狗となりて自由党の志士を迫害するが如きは、会津男児のなすべきことにあらずと考えたるにより、自分は福島に至り、若し頑迷悟らざるにおいては、場合により差し違えても所信を貫くべき覚悟にて、河野氏の乞いを入れて福島行きを決意せり」(門奈茂次郎「東京挙兵之企図」石川猶興『風雪の譜』、崙書房、1972)。
福島に帰った茂次郎を待ち受けていたのは、会津三方道路建設問題であった。北は山形県まで、南は栃木県まで、西は新潟県までをつなぐ三方道路の開設は、会津の発展にとって決して悪くない計画であったが、その進め方に問題があった。三島県令は議会を無視して計画を推進し、帝政党を使って反対派の武力弾圧も辞さない構えであった。反対したのは議会無視を憤る自由党員と、代夫賃の負担を強いられた地元農民である。農民は道路建設の夫役を拒む場合には人夫の賃料を支払わなければならず、代夫賃が払えない場合には財産の差し押さえが強行された。憤慨する農民に代わって自由党の原平蔵と三浦文治(別名文次)が11月20日に喜多方署へ赴き、郡長に激しく抗議したところ、逆に官吏誣告罪に当るとして拘留されてしまった。二人は23日に若松の軽罪裁判所に送られることになったが、これを知った農民2000名余りが、街道筋に集まって護送を阻止する行動に出た。三島県令はこの機に乗じて自民党県会議員の宇田成一らの逮捕に踏み切ったが、これがなおさら農民の怒りを煽ることになる。28日早朝から、赤城平六の呼びかけに応じて数千人の農民が山刀、棍棒、熊手などを持って喜多方署に押しかけた。その後弾正ケ原で集会を開いた彼らは代表者を警察署に送ることを決議する。喜多方事件として歴史に残る騒動が起こったのは、代表者による交渉の結果を知ろうとして群集が再び警察署に押しかけた時であった。群衆の中から投石があったとして、抜刀した巡査が数人を傷つけたのがきっかけである(大島美津子「福島事件」我妻栄ほか編『日本政治裁判史録 明治・後』、第一法規、1969)。
反対勢力一掃のために絶好の口実を得た三島はただちに自由党員と農民の検挙を発令し、2000人もの逮捕者が出たという。すでに帰国していた河野広中も無名館で捕らえられ、内乱陰謀の国事犯容疑者として他の56人とともに東京の高等法院に送られた(板垣退助監修、遠山茂樹・佐藤誠朗校訂『自由党史・中』)。
茂次郎は喜多方事件の時には現場にいなかった。彼は土佐、群馬、茨城などから応援にきた同志と共に熊倉村小沼にある赤城平六の家にいたが、急を聞いて喜多方署に駆けつけたときはすでに遅かったという。遅かったというのは、間に合っていれば、逸る農民を抑えることができたのに、という思いが茂次郎にあったためである。彼がこのような騒動が官憲側に利用されることを何よりも怖れていたことは明らかであった。彼は述べている「我国には昔より百姓一揆にて天下を取りし例なく、反対官吏の陥穽に堕ちざるよう力めて過激の行動を慎むべきをもってせり(ママ)。然れども遂に喜多方町に入り検束者の釈放を迫らんとし、反対官吏の陰険なる術策に陥りたり。余が急を聞き赤城小一、原利八氏等を同伴して解散に向いたる時はすでに遅く、一大騒擾を惹起するに至れり。喜多方の騒擾は三島に予期の口実をあたえ、福島全県下の自由党を一網打尽せしめ、河野広中氏等血判の盟約書も同時に押収せられたり」(「東京挙兵之企図」)。事件翌日の未明、自由党員が逗留していた赤城宅を警官が取り囲んだ。茂次郎は赤城平六と共に間一髪難を逃れたが、1ヵ月ばかり各地を転々として潜伏した後に会津のことが心配になって熊倉村に戻ったところを逮捕された。
喜多方事件は国事犯の逮捕に発展した段階で福島事件となった。しかし、喜多方事件の逮捕者を国事犯に仕立てるにはあまりにも証拠が少なく、河野たち6名を残して全員が免訴となった。 
[にしかわ じゅんこ/獨協大学名誉教授]