神保町の窓から(抄)

▼戦後間もなく、出版と読書文化の復興を目指して組織された「出版梓会」という出版社の団体がある。小社も加盟している。この会の最大のイべントは、毎年正月に行われる「梓会出版文化賞」の表彰式である。本の単品にではなく、その社の出版活動、出版姿勢に対して贈られるもので、並大抵のことでは受賞は覚束ない。今年は、本賞に合同出版、特別賞に筑波書房と七つ森書館が、そして新聞社学芸文化賞にこぐま社が選ばれた。誘われて表彰祝賀会に参加した。新しく選ばれた梓会の理事長菊池明郎さん(筑摩書房)が、筑波書房と一字ちがいなので、また受賞したかと勘違いした、と会場を笑わせながらも、筑摩書房再建の劈頭にこの賞を受賞し、弾みがついてこんにちがあると、この賞の縁起のよさを強調した。
 特別賞をもらった筑波書房は先代からつき合いがあった。先代鶴見淑男さんは、出版労協の書記局に在籍していた頃からの知り合いだった。当時は出版界でも争議が頻発しており、どこかの争議で知り合ったのかもしれない。1979年に筑波書房を興し、人間の生存のために必要な農業について考える書物を作っていきたいと宣言した。以来、一貫して農業書を作り続けてきた。大事なテーマだと思うが、そんな真面目な読者がたくさんいるとは思えない。小社も協同組合や信用金庫の問題から出発していたから、農業ものもいくらかたまっていた。社是とするほど農業書にこだわったわけではなかったが、農業書を拒んでいたわけではなかった。農業書はNOだ、などと皮肉ったものもいたが、それは、ただしい物言いではない。85年には共同で図書目録をつくったりして生き続けようとした。当時筑波の発行書籍は30点にも達していなかった。お互い経済的にはきつかった。鶴見さんは、いつも「売れないなー」とぼやきつづけていたが、路線を変える気配はなかった。3年ほどまえ、鶴見さんは急逝した。二人の息子が後継した。この二人も、親父の引いた路線を寸分も変えようとはせず、ひたすら「農」一本でつっ走っている。そういう姿勢が評価されたのだろう。受賞の弁を、慣れない壇上で話す若い鶴見治彦社長がとても立派な後継者に見えた。おめでとう。 
▼1978年の初版である柴田敬さんの『経済の法則を求めて』を年譜や著作目録を改訂して六度目の増刷をした。そして売れ行きも良い。合計で1万2000部。30年以上かかってこの数字である。何十年も売れ続けているものは他にもあるが、それは初版のままだったり、せいぜい3刷である。わが社のロングセラーのひとつである。この本の初版が出た頃は、信金や信組の、いわゆる協同組織金融機関の理論書・解説書が主な出版物で、まだ出版物の心棒が定まっていない会社だった。柴田さんの本がでて、小社の出版物は一気に「学」に近づき、顧客は金融機関から図書館や大学の先生に転回した。方向を変えるほどの力があった本だった。柴田さんはこの本に続けて『転換期の経済学』も出したのだが、驚いたことに、新刊が出来上がりお宅に持参すると、この本はだめだ、とおっしゃる。何か新しいことを思いついたのだろうが、いま出来たばかりの自著に向かってだったのでビックリした。柴田さんの令嬢はこういう。「父は、向こう気がつよく、また冷酷なほど正義の人だった。自分の信ずるところは、あくまでも主張し、徹底的に議論をして相手かまわずやっつけるという激しい性格だった」。わがままな一面もあったことだろう。お陰でこの『転換期の経済学』は二度にわたり「改訂」をして、そのいずれも初版は完売したが、増刷は許されなかった。昨年亡くなった杉原四郎さんは柴田さんの一番弟子で、公文園子さんと共編で『柴田経済学と現代』を作ってくれた。子弟二代にわたり小社の土台を築いてくれたのだった。
▼西川正雄さんが亡くなって丁度2年が過ぎた。これに合わせるかのように西川さんの最終講義ともいうべき書物ができました。西川正雄著『歴史学の醍醐味』(小社刊、2800円)。西川さんをよく知る伊集院立・小沢弘明・日暮美奈子の三氏によって編まれました。昨年来、何度かの編集会議をもち、「西川さんはこれで気に入るかどうか」を座標軸にしての議論を繰り返し、収録する遺稿の選択をしました。編集された三氏には大変なご苦労をかけました。回想の玉稿を寄せてくださった下村由一先生有難うございました。生前西川さんの本は出していませんが、名著『社会主義インターナショナルの群像』が岩波書店から2007年に刊行され、手に入れてすぐ、こういう本を作りたい衝動にかられました。西川さんの存命中には伝えられませんでしたが、飲み屋でつい口にしてしまったことが力を得て、こういう形で日の目をみることになりました。なぜ小社から西川さんの本が出るのか、と訝る方もおりましょう。大きな秘密があったわけではございません。そういうわけです。あとは多くの読者に暖かく迎えられることを願うだけです。悪しからず。  (吟)