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  • PR誌『評論』176号:ポスト・ケインジアンの理論的再評価   ──「ポスト・ケインズ派経済学研究会」発足30周年(中)

ポスト・ケインジアンの理論的再評価   ──「ポスト・ケインズ派経済学研究会」発足30周年(中)

黒木龍三

その人がポスト・ケインジアンかどうかは、実は何を基準に判定するかで変わってくる。「ポスト」が文字どおり「後の」であれば、サミュエルソンなどがリードした新古典派総合も加わるであろうし、実際かれらは自分たちをケインジアンと思っている。では何が真のポスト・ケインジアンと「バスタード(まがいもの)」を区別する点なのか、そしてポスト・ケインジアン自体について、折角なのでこの場を借りて私見を述べてみたい。
まず初めは、経済の全体的な仕組みや動きに対するヴィジョンについてで、正統派が市場の自動調整メカニズムに頼り、しかも初めから完全雇用を前提とする(古典派の第一公準と第二公準の同時成立)のに対して、ケインズとその後継者を自負するポスト・ケインジアンは、非自発的失業は資本制経済ではふつうに起こりうるとし、経済の活動水準を決める要因は、将来が不確実な下での企業の投資決意、投機筋の「強気」や「弱気」、企業の財務構成、中央銀行の金融政策など、きわめて多面的で有機的と考える。経済の規模は一定の大きさに決まっているわけではなく、例えば風船のようである。風船は懸命に吹き続ければ大きく膨らむし、途中で息を抜けばしぼんでしまう。経済は、民間に活力がみなぎっていれば放っておいてもそれなりに機能するだろうが、そうした場合は稀であって、これまでにも長引く不況や高い失業率にしばしば苦しんできた。不況下での賃金切下げは、所得制約を強めることで有効需要のさらなる減少を招く恐れがある。貨幣賃金を下げても物価が同時に下がれば実質賃金は変わらず、この場合にケインズ自身が最も恐れたのは、経済の原動力であり通常は債務者である企業の財務内容の悪化である(実質債務残高の増大)。失業を伴う不況は、理論的には各主体が自らはそこから抜け出すインセンティヴを持てないという意味でマクロ的なナッシュ均衡といえるかもしれない。いずれにせよ、真にポスト・ケインジアンならば失業の原因を市場の不完全性に求めるのではなく、資本制経済というシステムそのものに内在するであろう、属性としての不均衡や不安定性、そしてその投機性を追究すべきであろう。
二番目に指摘したいのは、教科書的な貨幣供給の外生性と流動性選好理論を中心とする貨幣需要の組合せに代わるものとして、金融動機を介在させた景気と貨幣供給の内生性の関係が議論されてきた点である。企業の投資と財務構造の変化をヘッジ、スペキュレイティヴ、ポンチの三段階で説明し、それと景気との関連を検討するミンスキー理論もすぐれてケインズ的である。金融を語るなら、CMO(モーゲッジ担保証券)に端を発し今回の金融恐慌の原因となった、中身の全く分らないCDO(債務担保証券)やCDS(クレジット・デフォルトスワップ)、そしてそれらを30倍とも50倍ともいわれるレバレッジで取引した投資銀行の責任追及などにも触れたいが、ここでは割愛する。
さて、最後は、実物経済についてである。この評価はいささかやっかいで、ポスト・ケインジアンのなかも二手に分かれているように思われる。ケインズ自身はレッセ・フェールが失業を解決できない原因を主に貨幣的側面に見たが、分配や産業間の技術関係など、もっと実物的観点から社会的・構造的問題に取り組んできた一群の経済学者たちがいる。この集団はスラッファや古典派、とりわけリカードウの影響が大きいので、スラッフィアンとかネオリカーディアンとか呼ばれる。利潤の根拠をめぐって正統派と交わした資本論争は有名で、これが新古典派の限界主義批判の主な場となった(技術の再切換えの可能性を証明)。スラッフィアンの多部門生産理論の特徴は線型の生産構造にあるが、そこにおける均等利潤率の設定が、古典派の、市場価格の自然価格体系への収斂という引力理論を前提にしてよいかどうかは検討の余地があろう(ロビンソンはかつて均等利潤率など歴史的にあったためしがないと批判し、二階堂副包はその安定性について批判的に吟味した)。
『一般理論』出版から70年以上経た今日、正統派からは無視された感すらあったケインズは、今回の金融恐慌で図らずも完全に復活したといってよい。もっともポスト・ケインジアンの陣営も反正統派という共通項を除いては百家争鳴で、むしろその多様性を誇っているかのようである。
[くろき りゅうぞう/立教大学経済学部教授]