日本経済思想史学会と杉原四郎先生

藤井 隆至

日本経済思想史研究会いまの日本経済思想史学会(以下、学会)は、2023年で創立40周年を迎えた。今日では日本学術会議の基準を満たす学会にまで成長しているが、発足時点では若干名の有志による小さな会だった。立教大学の一室で、逆井孝仁先生の進行のもと、7名の研究者が研究発表して互いに研鑽しあった。回を重ねるうちに研究仲間が少しずつ増え、学会誌を年刊で定期刊行したりして、組織はしだいに学会らしくなっていった。

杉原四郎先生(1920-2009。以下、先生)は、日本経済思想史という専門領域を開拓した先駆者であり、草創期の学会にとって非常に大きな存在であった。しかし先生は、シンポジウムでのパネラーを除けば、研究発表や役職に就くといった学会活動はなさっておらず、学会と先生との関係は見えづらくなっている。この機会に、回想も交え、学会と先生との関係を記録に残しておきたい。

先生は教育熱心で、ゼミ生だったという私の知人からもそのことを聞いたことがある。先生は情に厚く、多くの若手研究者に慕われ、その人たちを一人前の研究者に育てあげてこられた。私もその一人である。先生からいただいた手紙やはがきは、大きめの菓子箱一つ分ある。多くは私の研究についてのコメントであった。先生のご指導は、私が大学院に入学してから博士論文をまとめるまで、おおよそ二五年間続いた。これほど長い期間にこれだけの量のコメントを継続的に書き続けるのはできることではない。感謝ということばしかない。

先生からご指導をいただくようになったきっかけは、ご長男の杉原薫さん(以下、薫さん)との出会いによる。1971年、私は東京大学の大学院に進学した。はじめて院生研究室に行ったとき、同じ部屋に初対面の好男子がいた。その人が薫さんであった。自己紹介しあって、彼が京都大学から来たこと、私と同い年で、ご実家は私の実家からも近いこと等を知った。すぐに打ち解け、「スギハラ」「フジイ」と呼びあう仲になった。

院生研究室で私たちは毎日のように顔を合わせ、日本の経済学について批判的に語り合い、学問のあるべき姿を求めて熱く議論した。私の『柳田国男 経世済民の学』(名古屋大学出版会、一九九五年)は、このときの議論を私なりに総括した著書である。私たちは大学院でいくつかの勉強会を組織したし、一緒に学食や森食で食事した。北アルプス縦走にも出かけた。大学院生の私たちは、濃厚に交流していた。

その年の夏つまり1971年の夏、薫さんの仲介で、先生を甲南大学に訪ねた。先生は私が求める学風を持っておられた。先生は書誌学の造詣が深く、膨大な史料を丁寧に調べたうえで河上肇の実像に接近しようとしておられた。

私は先生の学風に傾倒していた。傾倒ぶりを示す私の著作に、藤井編『柳田国男農政論集』(以下『論集』、法政大学出版局、1975年)と、藤井編『日本農業新聞雑誌所蔵目録 1868―1945』(以下『目録』、日本経済評論社、1986年)の二著がある。このころの先生は、河上肇の全集を編集したり、経済雑誌の研究をなさったりしていた。その刺激を受け、私なりの柳田全集として発表したのが『論集』である。『論集』は、1900年代の農業雑誌たとえば『中央農事報』の「彙報」欄を全部しらべ、『定本柳田国男集』(筑摩書房)に収められていない柳田の農政論と彼の伝記史料を一書にまとめた史料集であった。『目録』は、戦前期に発行された農業雑誌のうち、大学図書館や公共図書館などに所蔵されている農業雑誌をすべてリストアップした目録集である。いわゆる三号雑誌も多く記録している。また雑誌の所蔵機関も記載した。農業雑誌の誌名だけではなく、関係者が雑誌を読むことができるようにしようとした企画であった。折から先生が甲南大学を退職なさった時期の発行となり、私なりの退職記念とさせていただいた。日本経済評論社では、若き日の谷口京延さんが担当してくれた。

じつは、右の『目録』は、先生から声を掛けられるままに杉原四郎編『日本の経済雑誌』(日本経済評論社、1987年)の研究会に参加した副産物であった。私は農業雑誌を担当したが、農業雑誌はあまりにも数が多いので、『日本の経済雑誌』では明治前期に時期を限定した。明治前期の農業雑誌の多くは各地の農談会等が発行しており、すべての雑誌が短命であったが、〝天は自ら助くる者を助く〟という農民たちの自助の精神に満ち満ちた雑誌ばかりであった。私なりの思い入れがあった。

大学院のあと私は新潟大学で職を得たけれども、同じような専門の同僚はおらず、研究面では孤立感を感じていた。研究会があれば大きな知的刺激が得られるだろうと思い、東京を会場とする研究会がほしいと考えた。この間の経緯については、『日本経済思想史研究』第14号(2014年)の座談会ですでに述べてある。先生に人を紹介してほしいとお願いしたところ、ただちに藤原昭夫さんと小室正紀さんを紹介してくださった。私と同じ悩みをもつ他の研究者も参加して、日本経済思想史研究会がつくられた。私のばあい、論文がまとまるたびに研究会で発表し、いただいた批判を盛り込んで完成原稿を作成していた。しかし先生は関西に研究活動の場をもっておられたこともあって、先生がこの研究会に出席なさることはなかった。甲南大学で研究会を開催したこともあったが、これは先生の古希をお祝いする意味合いをもっていた。私とのあいだでは、郵便による論文指導が続いていた。

農業雑誌に区切りをつけたあと、私は柳田国男の研究に戻った。私は大学院の終わりごろから柳田研究に行き詰まりを感じていて、先生から雑誌研究のお話をいただいたのはじつは渡りに船だった。柳田研究から距離をおいたことであらたな構想を得ることができ、柳田研究再開後は順調に論文が執筆できた。

もちろん、柳田国男研究でも先生からご指導をいただいていた。『柳田国男 経世済民の学』「はしがき」に、「大学院に進学してからは、杉原四郎先生の学恩におうところがもっとも大きい。先生は私信をとおしてのあたたかい励ましと、細部にわたる労多い指導を惜しまれなかった」との謝辞を書いている。私の柳田国男研究は先生とともにあった。

先生は河上肇等の一連のご著書を精力的に発表するだけではなく、教育にも熱心であったことは前述した。私のほかにも、先生から研究指導をいただき、一人前の研究者に育っていった人は何人もいた。私はそのような若手研究者の一人にすぎない。先生のご指導は研究者からの求めに応える形式だったから、指導内容は人によって濃淡があったと思う。私は研究会を作ろうと言い出した一人だったが、客観的にみれば、先生のご著書によって学問に志した若者が増え、その機運の中で育った研究者たちがおのずと日本経済思想史研究会に結集したのだった。先生は、日本経済思想史学会が組織されるための種を播かれた方だった。

[ふじい たかし/日本経済思想史研究会元代表幹事・新潟大学名誉教授]