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「首都圏」はいつから「首都圏」なのか?──『首都圏形成の戦後史』刊行に寄せて

松本 洋幸

「首都圏」とはどの範囲を指すのか? よく学生に問いかけることが多いが、正確に答えられるものはほとんどいない。法的には、東京都および周辺七県(茨城・栃木・群馬・埼玉・千葉・神奈川・山梨)を指す。これは、首都圏整備法および同施行規則で定められた範囲である。ただし「首都圏」という言葉から想起される範囲は、人それぞれ違っている。NHKの首都圏ニュースなどでも、東京・埼玉・千葉・神奈川は当然としても、茨城・栃木・群馬の情報が扱われることは極めて少なく、ましてや山梨はほとんど含まれない(むしろ甲信越という地理区分)。静岡を「首都圏」の一部として扱う報道も時折見られる。学生が当惑するのも無理からぬところである。

では、そもそもいつ「首都圏」という言葉が誕生したのか。それは首都圏整備法が制定される1956年よりも数年前、1952~53年頃と推測される。1951年、総理府の外局として発足した首都建設委員会では、戦災復興計画にかわる「首都建設緊急五ヶ年計画」を策定し、街路・区画整理・公園緑地・上下水道などの整備を計画していた。その一方で東京に集中する人口と産業を抑制し、周辺地域に効率的に分散配置する必要があり、そのためには東京都の枠組みを超えて、より広域的な都市総合計画が必要とされた。同委員会が発行した『首都建設 1952-53』の冒頭には「首都圏の構想」が掲げられ、東京23区の周辺にグリーンベルト(近郊地帯)をめぐらし、その外側に衛星都市を育成して、人口と産業の分散を図り首都の過密化を防ぐことが謳われた。ただし、その範囲は都心から約50キロ圏内(東京都、神奈川県の相模川以東、埼玉県南部、千葉県西部、茨城県北相馬郡など)とされた。

この「首都圏の構想」をベースにして、1956年に発足した首都圏整備委員会で広域計画(首都圏整備計画)の策定が進められるが、その過程で「首都圏」の範囲は肥大化していく。事務局では周辺県に配慮して当初の50キロ圏内を70~80キロ圏内に拡げた原案を作成したが、これに対し栃木・群馬・茨城・山梨などの各県知事が編入要請を強く行った結果、圏域は都心から100キロ圏内に拡大した。首都圏整備計画のなかで衛星都市(市街地開発区域)の指定を受けると、土地区画整理・工業用水道・義務教育施設など各種事業で国庫補助が得られるほか、様々な行政上の優遇措置を受けられることから、とくに周辺県からの「首都圏」への編入を求める要求は強かった。その後、1965年に自民党関東国会議員総会で、茨城・栃木・群馬・山梨の全域を「首都圏」の区域に包含するよう求める決議がなされ、翌年に首都圏整備法施行例が改正され、冒頭で述べたように一都七県が「首都圏」の範囲として法定化されることになったのである。

こうして見ると、首都圏整備委員会で策定された広域計画が、首都圏各地に浸透していくように思われるが、実態は全く異なる。開発抑制を余儀なくされるグリーンベルト(近郊地帯)に該当する多摩地域などでは強い反発が起こり、その構想が挫折したことはよく知られている。また首都圏整備計画を積極的に受容しているように見える周辺自治体でも、事情はもっと複雑である。圏内自治体や地域住民、あるいは政党、開発資本などは、首都圏整備計画を様々な形で読み替えて、自らの開発計画に取り込んでいく。そこでは対立、受容、妥協、融合、部分的選択、併進など、複雑な化学反応を起こしながら事態が進んでいく。「首都圏」とは、単なる首都圏整備計画の実現・挫折といった分かりやすい形で決着するのではなく、多様なステークホルダーと構想の相克過程によって不断に形成されていく空間である。

今回、首都圏史叢書9として刊行された『首都圏形成の戦後史』には、関東近県を対象とした首都圏整備計画の推移と、それにたいする地域社会の様々な反応を扱った一一編の論文が収録されている。また二一世紀初頭までという長いタイムスパンで「首都圏」の空間変容を射程に入れながら、開発に伴う地域の政治変動について中央政治とは異なる次元で迫ろうとした点も特徴である。多くの皆様に御批評いただければ幸いである。

[まつもと ひろゆき/大正大学准教授]