変貌するタイの鉄道

柿崎 一郎

最近タイの鉄道の変貌が目覚ましい。2021年8月にバンコクの近郊区間約40kmの複々線化と電化が完成し、日本製の近郊電車が運行を開始した。起点となったバーンスー駅には東南アジア最大級の規模の駅舎が整備され、優等列車はこの駅を発着するようになり、駅名もクルンテープアピワット駅に改称された。ここから北に約30kmの区間は高架の複々線となり、古いディーゼル機関車が旧型客車を牽引する旧態依然とした在来線の列車が、最新の日本製の近郊電車と並びながら真新しい高架線の上を走行している。

在来線の車両は30年以上使用した古いものが目立つが、2015年には20年ぶりに新型ディーゼル機関車が投入され、2023年にもその塗装から「ウルトラマン」との愛称を得たディーゼル機関車が加わった。客車についても、2016年に特急列車用の寝台列車が導入され、現在も高い人気を誇っている。これらの新車はいずれも中国製の車両であるが、日本からも北海道で廃車となったキハ183型ディーゼルカーが運ばれてきて、整備の上で2023年から週末の臨時観光列車として運行されている。塗装も車内も日本時代のままで、日本の駅弁を模した弁当が配られるなど日本を彷彿とさせるサービスもあってか、高い料金設定にもかかわらず人気が高い。

貨物輸送では、2021年末に開通したラオス中国鉄道を用いた、中国との間のコンテナ輸送が注目を集めている。ラオスの首都ビエンチャンまで延びてきた中国からの標準軌線と、タイから延びてきたメートル軌の鉄道が、ラオスのターナーレーン内陸港で接続を果たし、タイのメートル軌の貨物列車と中国の標準軌の貨物列車の間でコンテナの積替え輸送が可能となったのである。2023年2月には昆明~バンコク間で初の「直通」列車も運行されており、タイから中国への新たな輸送ルートとしての活用が進んでいる。

また、バンコクから北、東北、南へ延びる幹線の複線化も急速に進められており、現在約700kmの区間で工事が行われている。2010年の時点での複線化率はわずか7%であったが、現在複線化されている区間が完成すると34%まで増加することになる。さらに、2022年には約30年ぶりに北部と東北部で二線の新線建設も開始され、現在4000kmほどのタイの鉄道網が約700km拡大することになる。在来線とは別に高速鉄道二線の建設計画も進んでおり、2020年代末までには開通するものと思われる。

このように、近年急速に鉄道の復権が進んでいるタイであるが、その背景には21世紀に入って鉄道への逆風が順風へと変わりはじめたという交通政策の大きな変化が存在する。これは、ロジスティクス改善のためのモーダルシフトが重視されるようになったためであった。伸び悩むタイ経済のさらなる発展のためには、GDPに占める比率の高いロジスティクス費用を削減する必要があり、そのためには自動車輸送から輸送費の安い鉄道や水運へのモーダルシフトが必要であるとの議論が浮上したのである。このような鉄道がロジスティクスを改善するとの「鉄道神話」によって、鉄道への投資が2010年代に入って急増し、その成果が近年相次いで結実してきているのである。

筆者はこれまで19世紀末に始まったタイの鉄道の歴史を、主に政策面と貨物輸送面に焦点を当てながら繙いてきた。タイはバンコクから周縁部へと放射状に延びる鉄道網を構築し、鉄道は周縁部からバンコクへ新たな商品流通を生み出し、とくに農林産物輸送に重要な役割を果たしてきた。ところが、1960年代に入って道路整備が本格化すると、鉄道は自動車輸送との競合にさらされるようになり、鉄道は路線網の拡張ではなく近代化によって自動車輸送への対抗を進め、開発体制の下でセメントや石油製品といった工業製品が輸送の中心へとなった。

1970年代から国鉄は赤字経営となったが、1980年代までは近代化も継続され、東部臨海地域での新線建設も実現した。しかしながら、1997年の通貨・経済危機以降は新規投資も抑制され、国鉄改革が喫緊の課題となった。有蓋車を用いた農産物の輸送も21世紀に入って消滅し、急増した石油製品やセメントの輸送もパイプラインの整備や通貨・経済危機後の需要減によって減少した。他方で、1990年代に整備されたレームチャバン港とバンコクの間のコンテナ輸送が急増し、貨物輸送の主役は石油製品やセメントからコンテナへと変わった。

このような状況下で「鉄道神話」が浮上し、鉄道の復権が進められたのである。近年のインフラ面の急速な整備は目を見張るものがあるが、旅客数はコロナ禍前の2019年の時点で最盛期の1994年の4割、貨物量は2022年の時点で最盛期の2004年の8割という状況で、輸送面での復活はまだ見られない。複線化は急速に進んでいるものの、車両の増備が追いついていないことから、このままでは列車本数の増加も期待できない。2000年代以降の貨物輸送の伸び悩みは、機関車不足による面が大きかったことから、せっかく複線化や新線建設が進んでも、十分なサービスを提供できなければモーダルシフトは一向に進まない。その結果、「鉄道神話」が単なる「神話」で終わってしまい、鉄道への順風が再び逆風へと変わる可能性もありうる。2020年代にタイの鉄道輸送が本当に復権するのかどうか、その真価が問われていると言えよう。

なお、鉄道の復権は他の東南アジアの国々においても進んでいる。先進するマレーシアでは1990年代から在来線の複線化・電化を進め、現在は路線網の約半分が複線電化区間となっている。初の高速鉄道が開通したばかりのインドネシアでも、近年精力的に在来線の複線化が進められており、ジャワ島を東西に結ぶ2本の幹線はほぼ全区間複線となった。21世紀に入ってカンボジアとフィリピンの鉄道網は一旦ほぼ壊滅したが、カンボジアではその後修復が進められて列車の運行が再開され、フィリピンではマニラ近郊区間で新たに都市鉄道としての復活が進められている。

20世紀の後半には世界的に鉄道輸送から自動車輸送への転移が進み、中には鉄道が消滅した国も存在するが、21世紀に入ってから各地で鉄道の復権が見られるようになった。東南アジアで進んでいる鉄道の近代化は台湾や韓国でも行われており、鉄道大国である中国やインドも鉄道網の拡充や近代化に余念がない。順風に乗って発展を続けるアジアの鉄道の中で、唯一の例外が在来線の路線網の縮小傾向が止まらない「鉄道先進国」日本という状況は、何とも寂しい限りである。

[かきざき いちろう/横浜市立大学教授]