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『新版 日本経済の事件簿』の舞台裏

武田晴人

わが家の子供部屋には、『金田一少年の事件簿』というコミックが並んでいた。ぼんやりと、このタイトルが頭にあったかもしれないが、『日本経済の事件簿』というタイトルを、これから借用したという記憶はない。毎回一話完結で話し継ぐ講義スタイルは、切れ目が無いように時代の変化を通史として語るのとは違って、語り手にとってやりやすいという利点がある。その方法だと連載漫画と同じスタイルになり、それには『事件簿』というタイトルがぴったりとしている。
もっとも金田一少年の方は、難事件を間違いなく解決していくのだが、こちらは、ある程度見通しのある事件しか取り上げていないにもかかわらず、はっきりとした結論、解釈が示せないこともある。それは、著者の力量の不足と、歴史解釈が許容する幅の広さの両面に理由があるのだろう。もっとも、金田一少年の場合には、はじめから関係者のなかに犯人がいる想定になっているから、その設定の範囲内で犯人捜しをすればいい。そんなところは、歴史研究者から見ればうらやましい。なぜなら、歴史的な事件の因果関係を、とくに経済的背景に照明を当てながら「真相」を語ろうとしても、どこを探せばいいか、はじめからわかっているわけではない。もしかすると、光をあてて探している方向が間違っているかもしれない。つまり、ピックアップして登場させた「人物」のなかに犯人がいないということだってあるから、始末におえない。もちろん、そこに歴史の面白さもあるのだが、なかなか難題なのである。
たいていの場合、先ずテーマが決まる。「日本経済の」とタイトルを付けたので、日本の政治・経済の全体を見渡しやすいような、時代の特徴を示すようなテーマに絞って選んでいく。そうしてやや漠然と興味を引く事件がならぶ。しかし、それから話をまとめるまでには、文献を調べたり、資料をあさったりするので、結構手間はかかっている。最近はインターネット検索で書籍や論文を探すこともできるが、最初の原稿を書いた90年代初めにはそんなこともできなかったから、文字どおり手探りである。一番困るのが、資料などを読むなかで「新しいことが言えそうだ」と思ったときである。もしかしたら、私の浅知恵など、その分野の専門家たちがすでに指摘していることかもしれない。それを確かめる術はない。無いことを証明するのは至難なのである。他方で、先行研究があって定説が明確な場合には、そうした心配がないから、ついつい易きに流れたくなる。そうした場合には、オリジナルな論点のない話を人の業績に寄りかかりながら書いてもよいものだろうか、と考え込むことになる。
両面の不安があっても、この本を版を新しくして出版したいと考えたのは、歴史の面白さを伝えたいという思いからだった。伝えたいという思いを注ぎ込むのであれば、自分の得意分野だけという偏りはまずいから、新版では戦後のごく新しい時期についても、これまでの限られた勉強の範囲で書き足すことにし、またまた不安に駆られることになる。舞台裏は大変なのだ、というつもりはない。知らないことがわかってくるのだから、本人は一人で面白がっているし、その面白さを伝えたいと思っているが、私の表現力、話術はその希望には十分でない。それは許してもらおう。
全体をながめてみると、政治史的な事件が多いのは、事件という言葉に引きずられた面と、経済史という自分の専門分野を、経済現象を経済学というツールで説明するだけでは十分でないと考えている私の研究スタンスを反映している面とがある。歴史の研究の最大の醍醐味は、対象となる時代を全体像として示せることにあると思っているから、そのためには、経済的な現象を政治や社会の多様な文脈のなかで理解できるように示すことが大事だと思う。十分にはできなくとも挑戦し続けたい。「そんなことより、もっと専門的な学術書も書いたら」という声も聞こえてきそうだが、学術書を読んでくれる人の数を増やすためにも、『新版 日本経済の事件簿』を通して歴史に関心をもつ若い人に語りかけ、関心を持つ人たちの裾野を広げていくことが大事だと思う。
[たけだ はるひと/東京大学大学院経済学研究科教授]