グローバル日本の一齣

中川 辰洋

かれこれ十数年前の春、出張先のパリで久しぶりに会った某国際機関に勤務する知人に相談を持ちかけられた。

「日本文化研究で学位論文の作成のため青山学院大学に留学中のフランス人大学院生を指導するはずの仏文科の教員の仏語会話がからっきしで議論が成立せず研究も捗らないので、教員を代えるか、東京の別の大学で勉強したい旨を上司に訴えてきました。困った上司は、信頼できる日本人フランス研究者の知り合いがいればこの院生の力になってほしいと私に助けを求めました。けれど、くだんの教員は院生の所属の変更を認めず、事務方も教員変更の前例がないから無理、嫌なら帰国するほかないと言っているそうです。受入先を代える事務処理はそんなにむずかしくないんですよ」。

知人は藁にもすがる思いだと断ったうえで言葉を継いだ。「上司によると、この院生はとても優秀で、大の日本好き、持ち前の好奇心を発揮して日本の政治、社会、文化のありようを研究してきたと言います。事後承諾で恐縮ですが、中川さんの経歴や研究業績は上司にあらあら話してありますので、中川さんがもし院生を受け容れてくれれば万々歳です。お願いです、一度会って話を聞いてもらえないでしょうか」。

筆者の答えは“Non”、ほとんど即答だった。悩まなかった訳ではない。この院生のことを思えば助け舟を出すに如くはないと承知していた。それに筆者の性癖から言って、顔を見れば断れなかったろう。あえて否と返答したのは、以前筆者に助言を求めてきた留学生にゼミの聴講を認めた折、指導教員と称する御仁に「余計なことしないで、恥をかかせるつもり?」と因縁を付けられる不快な体験が脳裡を過ったからだ。この御仁や仏文科の便乱坊(べらぼう)を益するような真似は金輪際したくなかった。

“グローバル日本”の名のもとに留学生は年々増加したが、「難関」で音に聞く国公立大や私立大の留学生諸君に比べると、筆者が勤務していた中堅校に来る諸君の学力レベルは高くない。“グローバル日本”の恩恵に浴する長期滞在型観光組や某国の兵役逃れ組が少なくないからだが、一方で二年もすればかなり上達する者も散見された。ただそれは院生自身の勉学意欲の賜物であって、教員の指導の成果を意味しない。如上のフランス人院生の指導教員のケースはまれとは言いがたい。

ふり返ると、ラテン語の素養のない自称ローマ史家や西洋美術史家、国外の大学での聴講を修士修了と騙ったスペイン語教員、英会話の力量に疑問符のつく英語科の教員などは序の口。中国も金融論も門外漢の教員や農業の“の”の字もない教員が中国金融事情や世界農業問題を指導する事例さえあった。最近では、ボードレールの研究業績がなきに等しい山出しがかの詩人の研究を指導するケースがあったらしい。どれもこれもまっとうな研究者なら「噴飯物」と一蹴するに違いない。

歎かわしいが、「これがグローバル化を国策と謳うこの国の大学・大学院、少なくとも中堅校の実情です。この手の学校への留学は、それがたとえ“提携校”であっても、お薦めしない」とつけ加えた。筆者はいまに至るも間違っていないと確信するものの、かのフランス人大学院生はこの国に失望して帰国したであろうと推察する。知人が後日何度か寄越してきた電子メールに院生の後日談を伝える文言は一つもなかったけれど。

教科書風に言うと、自余の国ぐにの言語、歴史、社会、文化を学ぶのは、畢竟、他国もさることながら自国の理解を深めるためである。按ずるに、かのフランス人院生もご多聞に漏れず日本という国に興味を持ち、より深く知ろうと心掛けるうちに愛情を抱くに至ったのだろう。対照的に、“グローバル日本”、“英語は必須”と言葉は踊っているが、英国や米国を知るべく勉強する生徒は少数派で、総じて「英語を話すとカッコよく見える」からが本音に近い。

実際、日本人の多くにとってガイコクと言えば英米など白人優位の諸国であり、そこで用いられる英語は「国際語」と無邪気にも信じられてきた。だからと言って、英米加豪新などの英語圏にことさら興味や関心がある訳でも、英語が達者というのでもない。

これは筆者が勤務していた中堅校の生徒に限った話ではない。将来国際機関に勤務して日本と諸外国との交流に尽くしたいと抱負を語った「難関」私立大学の法学部生が国際関係の要諦について持論を披露した。曰く、「諸外国は何をやってもいいが、日本に迷惑がからないようにやってほしい」。

[なかがわ たつひろ/著述業]