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特集●関東大震災から一〇〇年 復興が拓く社会変動を多角的・長期的に俯瞰する

大矢根 淳

2023年8月上旬、連日にわたって猛威を振るう二つの台風や、命に関わる危険な暑さ・残酷暑を警告するニュースに触れながら、体と頭を冷やしつつこの原稿を前に逡巡している。私の専らとする領域では、八月ジャーナリズム(例年夏に集中する戦争報道)の次は九月初旬の防災週間ということになるが、今年は格別で、関東大震災(1923年9月1日)一〇〇年の特別企画が、各学協会でめじろ押しだ。現在、六二学協会が参画している防災学術連携体で七月初旬、「関東大震災一〇〇年と防災減災科学」と題して大規模シンポが開催されて、その講演動画等が同連携体HPに一般公開されている。関東大震災をめぐる日本の学術界それぞれの視角や研究・実践が俯瞰できて興味深い。

同シンポで筆者は、日本災害復興学会から登壇する機会に恵まれた。そこではこれまで既述の関東大震災復興論、すなわち、その帝都復興事業によっていかに現在の東京都心の骨格が形作られてきたのか(後藤新平の帝都復興論)、いやいや、そうしたハードな復興構想に真っ向から異を唱えたソフトでリベラルな復興論も叫ばれていたのだ(福田徳三の営生機会論)、というような諸論点からは一歩離れて俯瞰的に、都市・生活の破壊と再生の壮大な変動の諸層を歴史的に眼差す、そうした視角を試みに提案してみた。

同シンポで披露した内容を一つ紹介してみたい。関東大震災の大規模延焼火災(と、そこからの帝都復興の都市計画図=「帝都復興事業図表」東京市、1930年)と東京大空襲の戦災地図(「戰災燒失區域表示帝都近傍圖」日本地図株式会社、1946年)が、なぜここまで見事に重なり合うのだろうか。被害に見舞われた庶民の必死の抵抗の履歴を再構成する(早乙女勝元『東京大空襲』岩波新書、1971年)ことに、加害サイドの論理を重ねることで見えてくるものがある。1919年都市計画法を施行し、翌年第一回国勢調査を完遂して、列国と肩を並べる念願を果たした日本では、その戦間期に生活・産業構造が劇的に変容しており、それらは当時、各種社会調査によって多角的に精査されていた。この街にはどのような人がどのように生活(住居、労働、産業)しているのか。各種調査データをレイヤーとして重ね合わせて、そこに新興サラリーマン世帯が居住する庭付き一戸建て木造住宅・アパート群の配置と火災保険加入データを加えていけば……。そのご時勢、バケツリレーで消火することとなっている都心街区には、水をかければさらに火力を増すナパーム(油脂)型焼夷弾を投下するという戦略爆撃の手法が生み出されていた。アメリカは関東大震災後の都市復旧復興資料を取り込んで戦略爆撃調査を進め、それをもとに焼夷弾による絨毯爆撃を実施して、成果が「焼夷弾レポート」として刊行されている。

関東大震災を生き抜き、あるいは、地方から震災復興に参画してきてそこに棲みつき、そして図らずもそこで東京大空襲に遭うこととなって、そこに留まって戦災復興に尽力し、戦後は高度経済成長やバブル景気に際して実施された都市再開発の激浪(壮絶な地上げ)に抗して、地区生活を死守してきた黒木庄八氏の一代記が残されている(東京都台東区教育委員会『文化財調査報告書〝小僧〟のいた頃──関東大震災後の区画整理と下町生活誌』同会、1994年)。被災(復興)生活の連続性。1923年関東大震災、1945年東京大空襲は、そこに生活を賭ける人々にとっては、個別の歴史事象ではなく一連の生活事象である。あるいは中京地区では、戦時下の窮乏生活の中、東南海地震(1944年12月)に遭い、数日後からは激しい空襲に見舞われ、医療・救護体制の欠乏する中、疫病が流行り、そこに三河地震(1945年1月)が襲った。被災者を主格とすることで浮き上がってくる惨禍の連鎖。各時代・各地、枚挙にいとまがない。

一災害を多角的(そこに加害サイドの論理を重ねて)に、したがって長期的に、その被災を軸とした社会変動のうねりを俯瞰しつつ総体的に眺める視角が求められている。被災地では、被災して生きながらえるも、復興都市計画事業等で棲み処を失う層もあり(復興災害)、そうなることは現行法上論理的に自明のことなのだから、事前に復興の論理と段取りを学ぶ取り組みが各地で重ねられている(事前復興)。しかしながら、その検討過程で図らずも棲み処を失う危険性に難渋する層も出てくる(事前復興災害)。関東大震災の復興研究は、現代に生きる我々にそう問いかけているように感じる。

[おおやね じゅん/専修大学教授]