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  • PR誌『評論』226号:シリーズ 経済思想へのいざない② 「ゲームチェンジャー」としての経済思想と横井小楠

シリーズ 経済思想へのいざない② 「ゲームチェンジャー」としての経済思想と横井小楠

西岡 幹雄

コロナの蔓延とウクライナをめぐる深刻さが、これまでの資産・生産や消費の循環をグローバル化から分断化へ、経済の価値観変化を一挙に促していることは周知のことである。こうした従来の価値観の変化を、一言で表現すれば、「ゲームチェンジ」である。

元来、「ゲームチェンジ」とは、野球などのスポーツの試合で、その状況や流れを一変させることであり、転じて、ビジネスの世界などではこれまでの枠組みやルールが崩壊し、新たなシステムに切り替わることをいう。昨今、情報通信の世界において、クラウドサービスの席巻によってGAFAM優位の状況までも刻々と変化している底流にはこうした経済社会の価値観変化が深く介在していることは間違いない。そうした「ゲームチェンジ」を方向付けるものが、試合の流れを一気に変えてしまう選手、つまり、世界の経済動向を大きく変える人物、あるいは先見性をもって市場やルールを打破するアイデアが、「ゲームチェンジャー」であるとすれば、そうした「ゲームチェンジャー」の経済思想を究めることは重要であろう。

ただし、「ゲームチェンジャー」が登場するためには、外的環境と内的要素を隔ててきた壁をいかに融和させて新たな安定持続構造を社会経済に向かわせるかというアイデアと工夫が不可欠となる。ただたんに、フレームワークを導入したり発想しただけでは、「ゲームチェンジャー」としての思想は安定的に持続できる社会構造には結びつかず根付かない。何らかのループ的想定にもとづいて、内外組織の大勢を得る基綱の構築作業が何よりも求められるのである。

日本の経済思想の流れにおいて、このような「ゲームチェンジャー」の役割と意義を担った人物はいるだろうか。筆者としては、日本の近世から近代にかけて、〝ゲームチェンジ〟の架橋を担いうる学者として、幕末から明治初頭において幕末期の開明的な政治家・官僚、あるいは「倒幕の志士」を問わず、『国是三論』などを通じて、大きな影響力を及ぼした、横井小楠(1809-69〈文化6-明治2年〉)を挙げてみたいと思う。

横井小楠自身、西洋語そのものは理解しなかった。しかし、それにもかかわらず、漢訳の西洋文物を通じて、彼は近代学術に接近しようとした。そうした小楠の西洋に対する積極的な受容姿勢が評価され、たとえば勝海舟や松平春嶽、あるいは坂本龍馬、西郷隆盛、岩倉具視などの政治姿勢に変化を与えたことで、小楠は知られている。しかしながら、小楠が近世末から近代にかけての「代表的思想家」といわれながら、経済思想の観点から彼が取り上げられることは比較的に少なかったように思われる。

小楠の扱った近世の経済思想は、日本の経済社会を外国部門と取引関係を持たない鎖国体制から、開放体系に移行させたに過ぎないと、経済理論的には、整理できるのかもしれない。しかし、たんに所与の条件が変わる技法だけで彼の役割を論じることは、日本経済思想上の「ゲームチェンジャー」の意義としてはやはり不十分である。

まず、小楠を出身である熊本藩を批判した『時務策』(天保年間)から考えてみよう。それは、西洋の利益に対して、豊太閤(豊臣秀吉)以来の禁教と貿易の利点とのトレード・オフの関係をいかに解決するかを前提にする限り、藩政の経済政策には限界があるという視点を持つものであった。

ペリー来航後の日本の政治経済の激動を背景にして福井藩に提言された『国是三論』は、鎖国体制に代わる「万国の公共の道」である「万国交易」 にもとづく地域と日本の「富国」発展と世界に向けての開放体系のための諸政策が、いかに日本を新たな安定持続構造に導くのかというものであった。

要するに、豊太閤以降の体制が独力でゲームを遂行する力があれば、日本の利得と「治安」との状況を考えて、国の「治安」割合が「交易の利」よりも恒常的に大きければ、泰西のように交易に存立の基盤を置かなくても、利得値から日本「国家の憂不安の基」にもとづいて鎖国による体制が維持されるであろう。

しかしながら、元和偃武以来、士民の生活水準上昇や、彼らの消費欲求が他の人々の消費状態によって影響される誇示効果の一般化につれて、鎖国システム下で専売制のような特定経済活動に経済の荷重をかける政策運営は、日本全体の生産と消費との循環を阻害するだけである。そうなれば、いったいどのような体系に依拠すれば、産業活動に応じた「富国の道」をたどることができるのであろうか。天保段階の『時務策』では、このことがなお未解決のままだったのである。

そこで、世界の大義による正しい徳にかなった道である「有道」による「開国」にもとづく交易の追求は、システムとしても信義的にも、比較利益の上から安定する。「交易の原理」が「国是の大道」とするというシステムの前提に代われば、「万国交易の理」を通じて、「治国安民の道」として、「利用厚生の本を敦くする」ことができるのである。そうした事柄を無視して、〝クローズド・システム〟を続けることは「国是」として不利益だし、信義的にも「万国」を貫く「大義」であるとは言い難い。また、強大な海陸軍力を装うことで、日本からの参入利益を得ようとする列強の戦略的行動も、世界の大義に反した「不信不義の道」である。このような「無道」な列強による開国は、「有道」にもとづく合理的な制度ではないために、「万国交易」体制として恒久的な安定性を得ることはできない。

ただし、小楠の『国是三論』は、「万国の公共の道」である「万国交易」にもとづく富国とそのための産業諸政策が、「西洋の模倣」ではなく、天・地・人にかかわる賢人思想に由来する、『書経』以来の東アジアの政治経済の仕組みだと強調している。にもかかわらず、「万国の公共の道」である富国の道は、徳川家の安定と繁栄のために阻まれ、「士民の幸福」へ還元されることはなかった。徳川体制護持のための閉鎖的体質による鎖国システムがもたらした、「双方向の交通・通信の開放」がない状況は、いかなる不利益や損害も免れることはできないのである。

松平春嶽を通じての幕政への小楠の「建言」、あるいは明治新政の「五箇条の誓文」自体、その思想と理念は小楠と無関係ではない。しかしながら、文化年間に生まれ、すでに天保年間には大成していた学者にとって、近代明治はやはり「余命」の時代であった。1869年(明治2年)、京都で頑迷な攘夷論者によって落命しなくても、すでに病床の身であった小楠がそれほど長く明治を過ごしたとは思われない。学問の求道者として「真実の学」を追い求め、その結果、『国是三論』とその内容を原理的に保障する「公議論」、および富国を政策的に「実践躬行」する目的と手順が明治維新後に残された。

(詳細はNishioka Mikio, Ideas and Economy in Japan: Innovation and Tradition, Yuhikaku, 2022, ch.7を参照いただければ幸いです。)

[にしおか みきお/同志社大学教授]