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  • PR誌『評論』225号:シリーズ 経済思想へのいざない① 成長か安定か──近世後期の国益思想をめぐって

シリーズ 経済思想へのいざない① 成長か安定か──近世後期の国益思想をめぐって

落合 功

経済思想とは、経済現象や政策、経済活動の裏付けとなる思想一般である。多くの議論は経済を担う人々(個々の政策者・学者・経営者)の思想を探ることが多いが、小泉純一郎政権の時の郵政民営化、アベノミクス、古くは中曽根政権の規制緩和や池田勇人の所得倍増政策など様々な政策の背景には経済思想(経済政策思想)がある。身近なところでは、「一人一人のお金の使い道」も経済思想に基づいていると言えるだろう。また、こうした行動・政策の判断基準となる思想だけでなく、当該期の行動規範として常識とされている思想(考え方)も経済思想である。もっとも、経済思想は学問に基づいたもっと崇高な理念であるとする考え方もある。このシリーズでは、かかる多様な経済思想を紹介し、経済史の背景にある思想に目を向け、興味関心を深めることを目的とする。ぜひご一読いただければと思う。

今回は、近世中後期に展開した国益思想を紹介する(詳細は、落合功『国益思想の源流』同成社、2016年を参照されたい)。国益とは、国の利益ということになり、理念的には領主も民衆も利益を得ることとして使われる。実際、国益を唱えるときには「上下之益」という文言が史料中に出てくる。近世においては、日本(幕藩制国家)だけでなく、藩の中でも扱われていた。また、藩領内だけでなく、国郡の国としても扱われており、その意味で国益の範囲は多様であった。かつて国益思想の議論を牽引した藤田貞一郎は、近世後期、藩が推進した殖産興業政策の背景には国益思想があり、「中央市場依存策(大坂・京都・江戸)から断ち切り、国産物自給自足の思想、経済自立の思想」と積極的に評価している。

国益思想は日本独特な発想とされるが言葉としては古くからあった。孟子が梁の恵王から「先生はどのようにして国に利益を与えてくれるか」と問いかけられたとき、孟子は「上の者も下の者も利益を求め合えば国は危うくなる(上下交征利而国危矣=しょうかこもごも利をとらば、すなわち国危うし)、王は利益を求めるべきではなく、仁義を問題にすべきだ」と答えている。また、渋沢栄一も「国家的事業だ、国益上の興業だと云へば、天下何事業として其の然らざるは無いといふことになる。」と述べ、米屋も車夫も全てが国家事業であり、特定な取り組みを国益と理解することに異論を呈している。

ここでは近世後期の国益思想を紹介しよう。西日本諸藩が国益思想を背景に殖産興業を推進するのは文化文政期のことである。関東では、宝暦天明期のころ、大師河原村(現川崎市)名主太郎左衛門(池上幸豊)の活躍に散見される。

池上幸豊は、新田開発や砂糖国産化に熱心だった。国土開発による新田開発や輸入防遏を意図した砂糖国産化を国益だと指摘する。管見の限り国益文言の初見は、享保一四年(1729)のことで、池上幸豊の父幸定は新田開発を推進することを指摘する。池上幸豊の代となり砂糖国産化の過程において、国益という文言がしばしば使われた。もっとも、大師河原村の名主(池上幸豊)が初めて「国益」という表現を使ったわけではないだろう。池上幸豊の交流範囲は広い。国学者である成島道筑、本草学者で医学者だった田村藍水、そして、その弟子平賀源内とも親しかった。また、成島の紹介により冷泉家の門人として和歌に参加しており、田沼意次とは同門になる。こうした人脈により、池上幸豊が砂糖国産化の担い手となり、国益思想を推進したのである。ちょうど池上幸豊が活躍したとき、江戸幕府の実権を握っていたのは田沼意次だが、幸豊が和製砂糖を広めるときの訴願の文言に国益を引用するように指示している。実際は田沼の用人である井上寛司が指示したことだが、このように、国益であることが当時のキーワードとなっていたのである。

それでは国益思想は、従来の封建思想とどのような違いがあっただろうか。これまでの幕藩制社会は五穀中心の生産を奨励していた。検地によって耕地の種別(田畑)を確定し、生産物を決めた。土地を媒介とし、領主が耕地の生産活動を保護し(土地の所持権を認め、生産活動を保証する)、農民が耕地で生産する関係が封建的な関係であった。その関係を年貢によって確認した。つまり、田畑は検地によって決められた五穀を生産し年貢を納めさえすればよかったのである。もちろん、それは苛斂誅求といわれるように容易なことではない。それに対し国益では、田畑で地の利を生かした(土地柄に合う)有益な商品作物を生産することが求められた。そして、それが利益となることで、領主も民衆もいずれも利を得ることが肝要だと考えた。五穀以外の商品作物の生産を肯定した。そして、それは耕地での生産活動での発想を転換する。要するに国益思想は近世後期全国に広く展開した国産奨励政策を後押しする思想であったのである。それがより実践的に具体化したのが、西日本の大藩であった。各藩は藩札を発行し、それを資金とし、木綿や櫨(はぜ)など地元の特産品を生産物として吸収し、藩は大坂へ回送・販売することで現銀化した。

広島藩では藩が独自に発行できる藩札を新田開発、殖産興業資金に充てた。これにより「国産相益上下之益」と、国産品が増産され領主、民衆の利益になるとする。これに対し、藩内では『礼記(王制)』の「量入為出(入るを量りて出ずるを為す)」を引用し、収入を量って支出を検討すべきで、余力は不測の事態に備えて備蓄することこそが「至極の道」と、大量の藩札発行(金融緩和)による過剰の支出への批判がなされている。結果として、幕末期に広島藩ではハイパーインフレを招くこととなり、二度に渡る金融危機を経験する。最終的には新札一匁を旧札五〇〇目の(五百掛相場)藩札切り替えで危機を乗り越えている。

各地で商品作物が展開することでモノカルチャー化が進展した。結局、近世を通じて飢饉は無くならなかった。砂糖生産(甘蔗生産)は西日本各地で展開し、国産化は達成できたが、幕府は本田畑が甘蔗生産地となることを危惧し、本田畑での甘蔗生産を禁止し、手余り地(耕作地として把握されていない土地)での生産を奨励している。享保飢饉のとき、金百両を首にかけたまま行倒れ人がいたとし、「凶作不作もある事をはからずして、大切なる農業をおろそかになしぬるもの多くあれば、其天罰を蒙り……」という話が各地に伝わり、いくらお金があったとしても飢饉のときには無意味であり、食糧生産(五穀生産)への回帰を求めた農本主義の思想も広がる。

近世後期の経済思想は封建思想から国益思想へと転換したかと言えばそうではない。近世初期から存在している領主制的な原理は維持され続けていると言って良いだろう。幕末に至るまで農民は年貢負担を行っており、その意味で生産物と耕地に対する領主の生業維持は続いている。国益思想はこうした領主的な原理による救恤・仁政思想に加えられた近世後期の思想として存在したのである。

[おちあい こう/青山学院大学経済学部教授]