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「生きること」を歴史から問う 番外編 「生の歴史学」を求めて

高田 実

「生きる」は、身近にある普通の言葉である。だからこそ、どういう意味かと問われると、答えづらい。それは、この言葉があなたの存在と活動の総体を表すからである。それだけ、深い内実と捉えづらさを含む。また私たちは、「生きる」はいつも自分の側にあると思い込み、その大事さを自覚的に問い直すことを怠ってきた。しかし、歯止めなき格差社会に疲れ切った人びとを襲った災害、感染症、そして戦争は、そんな日常は決して当たり前でないことを思い知らせた。日常が持つ価値とそのなかで「生きる」意味を、改めて考えてみる時期にさしかかっている。

この捉えどころのない「生きる」を、どうしたら歴史の現場で摑まえることができるだろうか。また、そこにはどんな意味があるのだろうか。ここでは「生の歴史学」の方法的課題をいくつか示しておきたい。

まず、「生きる」のは誰か。かつての歴史学は歴史の「主体」を労働者や農民などの経済的範疇、あるいは政治主体としての「市民」として捉えてきた。しかし、拡大する格差社会、「生きづらさ」を増幅する差別社会において、こうした一体化した主体像は描きづらくなっている。しかも、従来の歴史学はえてして、「元気な」人びとを主語としていたように思える。「生存学」研究が訴える「障病老異」が、客体としてではなく、主語となる歴史が書かれなければならない。

さらに、歴史のなかに生きる人びとは、「自立した個人」とは限らない。ひとりの生存に他者のケアが前提とされている場合が往々にしてある。しかも、ケアする人の家族も、誰か別の人がケアしており、ケアは連鎖的につながっている。こうした関係性のなかで、「生きる」のは誰か。単数形か・複数形か、どのような存在規定と帰属意識をもった人びとか、歴史の主語のあり方が、再検討されるべきであろう。

第二に、生には共同性が不可欠である。人は決して一人では生きられず、さらには一人で死ねない。この生を支える人のつながりを、「社会的紐帯」「ネットワーク」などの抽象的な分析概念に頼らずに、歴史のなかの実態概念を用いながら、描けないだろうか。当時の人びとは、どのような言葉でこの共同性を語っていたのか。あまりにも当然で、それを語る言葉が不要だったかもしれない。こうした有形・無形の共同性のあり方が、歴史の用語で説明されるべきであろう。

第三に、生きるとは闘いである。ほとんどの人は、生きるために公然あるいは隠然の闘いを行っている。デモ、ストライキなどの目に見える闘いだけでない。公的支援が乏しいために、子育て、介護などの日々の暮らしにおいて、生活防衛の闘いを強いられている。しかも闘う相手は、資本家や為政者だけではなく、家族、隣人、友だちなどの身近な人びとであったりもする。自らを縛る規範や環境管理型権力に抗い、懸命に生きる民衆の闘いの知恵と戦術の実像が描かれるべきであろう。

最後に、「生きる」を基軸とした歴史を描く時、いったいどのような歴史のものさしを用いればよいだろうか。生産力の発展とGDPに表される貨幣的富の量が歴史の尺度を与えないことは、現実を見るだけで十分だ。「生活水準」概念が生の豊かさを示さないことも、既に明らかにされている。また、民主主義の制度的前進をものさしにしようとしても、それだけでは現実の生きづらさは説明できない。国家の制度はそれなりに「前進」していても、現実の生活上の「痛み」を与えているのが、「世間」のなかではびこる通念だったり、いじめだったりする。肝要な点は、生の選択肢がどれだけ広く揃えられ、実際にどこまで選びとることができたかである。生の選択可能性が、どこまで実質的に保障されてきたか、これが歴史のものさしであるべきではないか。

「生の歴史学」は、〈生身〉の人間、総体としての人間を復権し、その生の格闘を描くことを通じて、政治史、経済史、文化史など分断の試みを重ねてきた歴史学に、《全体史》としての新しい生命力を取り戻す試みであるといえよう。「生きづらい」過去の現実を暴露するだけでなく、これからを生きる手がかりと希望を提示できるところに、歴史学の魅力はある。高度な実証に裏打ちされた論集、大門正克・長谷川貴彦編著『「生きること」の問い方──歴史の現場から』は、そのための素材を提供してくれる。この本は問題提起の書であると同時に、未完の書でもある。「生の歴史学」は、始まったばかりだ。

[たかだ みのる/甲南大学教授]