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〈追悼〉さりげなく助けてくれた本間義人さん

栗原 哲也

本間義人さんが86年の生を終えた。今年の正月のことだ。日本経済評論社は、本間さんの人生の半分以上に同伴した。

創業から10年を迎える頃だった。全国農協中央会の後援を得て復刻した産業組合中央会機関誌『産業組合』(全56巻)が農協団体や図書館に広く迎えられ売上高は文字通り「空前絶後」の数字をあげていた。社内には恐いもの知らずの空気が漂っていた。それまで信用金庫業界を客として金融関係のブックレットなどを作って温和しく暮らしていた身には雀躍りするような時期だった。慾が出た。お堅い本より一般書も手がけたい。分野を拡げ社員も増やし新しい著者が続々と登場していた。

内山節、薄井清、折原脩三、原田津、寺沢正、丸岡秀子……茂木和行の『原理運動』、佐々木俊郎の『あるばむアメリカ──学校・女・車』まである。魅力ある一般書。この路線の中で本間義人さんにも原稿を依頼していた。タイトルは『海釣りの社会経済学』だ。

社業が動顚した。

金繰りがつかなくなって社員や業者への支払が出来なくなったのだ。進行中の企画も他社に肩代わりを依頼し、印刷や製本代の支払は延期してもらった。20人を超していた社員は3人となって、目も当てられぬ状況。だが、本間さんに依頼していた原稿は止めなかった。理由は明白だ。本間さん担当の編集者だった清達二の存在が大きかった。

本間さん、これはどんなことがあっても出しましょう。

この本は、清の努力が結実し無事上梓されたが、本間さんの胸には小さな蟠りが残った。ピンチなのに、なぜ俺の本に拘ったのか。だが、この問いはご本人から発せられたことはなかった。

本間さんは都市政策を専門域とする毎日新聞の記者だった。日本が戦後復興の中で、まるで土建屋国家の如く改造されることに厳しい批判の視点をもっていた。後年の日本経済評論社でシリーズ「都市叢書」として編まれた数々の本には、本間さんが持ち続けた豊かな都市思想が脈打っている。人が生きる街、人が暮らす住宅、家族が繫がれる地域、換言すれば、平和で安心できる国づくりを構想し続けたのである。

低俗なお喋りをする人ではない。いつも沈鬱な面持ちで静かに話す人だった。会う時は必ず社業の安否を気遣ってくれた。大会社の真似をするな、社員を大事にしろ、月給は満足に出しているか、お前の体調は如何。そして、談話のお終いには「俺たちは何をしてきたのか、何をしてこなかったのか」と、己が胸中に鶴嘴を打ち込むのだ。聞く側には励ましとも??咤とも受け取れる重いものだった。

1980年代が終わりかけた頃、東大経済学部の林健久さんと面識を得て、経済企画庁の書庫に眠る経済安定本部資料の整理と公刊が話題になった。戦争終結後の経済復興のための政策拠点となった所謂「アンポン」の資料のことだ。現物を見に経済企画庁を訪ねた。

倉を埋め尽くす25万頁に及ぶガリ版刷りの紙の束。仰天したが、「戦後」を出発させた多くの施策は公刊する意義があると踏んだ。だが、触れば毀れそうな仙花紙を、どうやって研究者に見てもらうのか。無謀だ。これは身の丈に合っていない。金もかかるしこの企画から身を退け、そう直感した。

寝つきの悪い91年の正月が明けて、律儀な本間さんが正月の酒を飲みにきた。私は頭を抱えて年を越したアンポン資料のことを話した。もちろん、やってみたいが断念することの恨みがましさを込めて。

黙って聞いていた本間さんがボソっと呟いた。「下河辺さんに相談してみるか」。下河辺さんとは、建設省出身の戦後都市復興計画を担当してきた官僚である。本間さんとは旧知の仲で、当時はNIRAの理事長をしておられた下河辺淳さんのことである。

本間さんは、飲みにきた酒も飲まずにその足で下河辺さんを訪ね、この一件を進言してくれた。「こんなことをやりたがる出版社もあるんだな」と理事長は認めてくれた。NIRA本部では下河辺企画として審議され、資料整理資金として数千万が即座に認可された。

林健久さんの組織した十数人の編集委員は直ちに動きだした。数年後に41卷の大資料集として姿を現わす『経済安定本部 戦後経済政策資料』はかくして胚胎されたのであった。

その後、わが社は10年以上をかけて戦後の経済資料を刊行し、その総数は230卷を超えた。社業ピンチの中での出会いであったにもかかわらず、われらを敬遠せず、人生の最後までつき合ってくれた本間さん、40年を超えた今、あらためて義人の助力をかみしめています。ありがとうございました。そちらに行きましたら、あの時飲み損なった酒を飲みましょう。委細面談の折に。

[栗原哲也/日本経済評論社会長]