パリ・コミューン百五十周年に想う

中川 辰洋

プロイセンとの戦争で敗れたフランスでは、アドルフ・ティエールのヴェルサイユ新政府の講和条約を不服とするパリ市民が一八七一年三月十八日に蜂起、自治政府の樹立を宣言した。世にいうパリ・コミューンである。その自治政府は首都を包囲するプロイセン軍を恃みになだれ込んだ新政府軍によって五月二十八日完全に制圧され、わずか二カ月ほどで血の海に沈んだ。
パリ自治政府の評価はさまざまであり、往時のフランス・アカデミズムがコミューン派の愛国主義や民主主義を強調する一方、ブランキなどの革命家や、第一インターナショナル派とこれに共感するマルクスをはじめとする思想家たちは人民革命政府と捉え、それがのちのち世界初の労働者・民衆の革命独裁、ひいては一九一七年のロシア革命に先行する社会主義政権の出現と考えられるようになった。筆者も高校生時代、この説の信奉者だった。
この春、百五十年前のパリ・コミューンにちなんだアカデミズムやメディアの特集がフランスで企画されたのは当然だが、「社会主義」を標榜する国ぐにではコミューンの〝コ〟の字もない。中共は習近平体制の強化と共産党結党百周年を祝う準備に腐心し、お隣の社稷の朽ち果てた北鮮金王朝は体制維持に血眼であり、さらに高祖金日成とその息子の恩に報いることを悲願とする南の片割れの民族左派政権は度重なる失政と腐敗を糊塗することに感けて何も見えていない。わが国の共産政党もを決め込んだ。
ことほどさように、レーニン=トロツキー流の国際主義を放棄して一国社会主義の名のもとに左翼民族主義に転じた旧ソ連に倣い、天安門広場で革命歌インターナショナルを合唱する学生等に銃弾を浴びせたばかりか、少数民族への暴虐の限りを尽くした人権蹂躙を批判する人間たちに向かって内政干渉と恫喝する中共支配層を見れば、天安門城楼の標語「世界人民大考써万鋸」は冗談以外の何物でもない。
旧ソ連のの成れの果て、中共や南北朝鮮の狭隘な左翼民族者義者たちがパリ・コミューンを語ることを放棄したのとは対照的に、フランスのテレビ局Arteがこの三月、グラフィックデザイナーのラファエル・メイサンが当時の版画や挿絵をもとに数年前に出版したBD(漫画)『コミューンの飢えたる者どもよ』を映画化した他、France Inter もドキュメンタリーを制作した。さらに新たな解釈を試みた出版物の多くが書店に並んだことも忘れてなるまい。
筆者が共感したのは歴史上初の「革命独裁国家」にとって代わって、これまで脇に追いやられたコミューン本来の意味である自治体、市民や労働者の協同組織に基づく民主的体制と政策に光を当て「分権的な社会民主共和国」と再定義し評価したことだ。貧民救済、パン焼き工の夜間労働の禁止、事業主が遺棄した工場施設などの接収と労働者団体による自主管理と集団所有への移行などの生活や労働の諸権利の保障の他、国教分離と義務教育の世俗化、女性教師の増員、男女間の賃金格差の是正など教育の民主化、女性解放や男女同権の政策などが、それである。
これら一連の政策やプランは、新政府軍との苛烈を極めた市街戦の末葬り去られたかに見えた。ところが、第三共和政下の歴代政府は国教分離をはじめそのほとんどを引き継いだ。確かにジェンダーなるタームを用いて女性解放を語るのは、ボヴォワールの『第二の性』が出版される一九四〇年代まで待たねばならなかった。だが、「プロレタリア」の看板をかなぐり捨て「独裁」の二文字に惑溺する中共などの左翼民族主義諸国では、今日に至るも議論にさえならない。その意味からすれば、当時のパリ市民たちがその本来の語義の共同体や自治組織に根差す政治・社会改革を目指したとする近年の評価は正しいと思う。
筆者はパリを訪れるさい東郊のペール・ラシェーズ墓地に出かけ斃れた戦士たちの墓に花を手向けることをつねとするが、ある年、シャンソンの名曲にいう「さくらんぼの実る頃」に詣でた。この歌は、銅工職人でコミューン戦士の詩にオペラ座のある歌手が曲を付け、のちにパリを蹂躙した第三共和政政府に批判的な市民たちが歌ったことから、有名になったという。
この春、コロナ禍ですっかり遠くなったパリを想い、コラ・ヴォケールの歌を聴いていた折、メイサンの作画した登場人物が筆者の脳裡に蘇ってきた。そのおもざしには苦痛や憎しみや悲しみではなく、「さくらんぼの実る頃」を称える笑みがあふれていた。
[なかがわ たつひろ/著述業]