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経済史と経営史の間で ──『いわゆる財閥考』を書いて

下谷 政弘

二〇一六年の秋から京都の住友史料館で仕事をするようになった。住友には四百余年の歴史がある。住友がその家史編纂を開始したのは明治二〇 (一八八七)年のこと、それ以来、史料の保存整理や諸事蹟の調査研究などの活動を続け、修史室などの変遷を経たのち、住友史料館となったのは昭和六二(一九八七)年からである。とくに鉱山史などを中心に江戸期や明治期の手堅い研究で知られ、研究成果を『住友史料館報』として毎年刊行し、あるいは昭和六〇年からは『住友史料叢書』を編纂してきた。私が史料館に入った時の研究員は五名であった。私は、日本近世史を専攻してきた文学部出身の研究員たちのなかに混じって仕事をはじめた。
住友の長い歴史と格闘する研究員たちは、近世史と近代史の両刀遣いが求められる。しかし、緻密な研究に徹すれば古き時代に沈潜せねばならず、なかなか近代史までは届かない。最近では近代史の研究成果もふえてきたが、すでに「大正昭和も遠くなりにけり」である。そのなかで私の役割はといえば、研究対象の時代の早送りとでもいおうか、大正昭和(両大戦間期)の歴史研究をより充実させていくことであった。そして、住友の近代史となれば「財閥」の歴史にもなる。「財閥」はネガティブなことばであるが、住友史料館が避けて通れない研究課題である。その産物の一つとして今回『いわゆる財閥考』を上梓した。
一般に財閥の歴史研究については、第二次大戦後の最初の主流はもっぱら経済学的(マクロな独占、所有支配、経済力集中)なものであった。「財閥」はコンツェルンの同義語ともされ、歴史的批判の対象であり、もとより社会科学的な用語として扱われてきた。そこに、昭和三九(一九六四)年に経営史学会が誕生し、新たに経営史的な財閥史研究(経営者の戦略、組織、番頭経営など)がスタートした。爾来、経済学から経営学が生まれ急成長したのと同様に、個別企業史的な、いわばミクロな財閥史研究が今日では主流を占めるようになっている。経済学的(マクロ)な財閥史研究に馴染んでいた私も、その当時、森川英正「日本財閥史における住友と古河(上下)」(『経営志林』、一九六六年)を読んで、経営史研究の面白さを教えられ引きずり込まれた。
近年来、歴史ブームであるといわれて久しい。そのなかで一般的な「日本の歴史」の近代編(大正昭和期)を眺めると、政治史や文化史を中心に語られることが多い。財閥史はむしろ無視され後景に追いやられている。実際、財閥史研究は「経営史の専売特許」のごとく精力的に進められたため、「日本の歴史」の中では敬遠されたままである。しかし、三井や三菱などの大財閥は政党政治の財政基盤としてその消長に深く関わっていた。あるいは、「満洲国」や戦時統制、さらに日中戦争の進行などについても、財閥を抜きに語れる部分はけっして多くない。
経済学の基礎を欠いた経営学などはありえないであろう。同様にして、経済史という大枠を忘れた経営史研究もありえない。経営史的な接近はややもすればマクロな視点を忘れさせてしまう。財閥史でもそうである。個別企業史とはそれほどまでに魔力を放って面白い。しかし、個別企業史的であればあるほど視界は狭いものとなりがちで、それを取り巻いた時代環境を忘れさせてしまう。かつて財閥史研究で活躍してきた先人たちは、経済史の訓練を経験した上でこそ経営史に取り組んできたのである。
住友史料館で仕事をするようになって、あらためて歴史研究には文学部的な歴史と経済学部的な歴史との違いがあることを知らされた。歴史資料の読みの深さや取り扱い作法の違いに驚かされた。これは歴史研究への人文科学的接近と社会科学的接近の違いなのかもしれない。はたして経営史的な財閥史研究というのは、それら両者の中間にでも位置するハイブリッドなものなのかどうか。今後も、伝統的な「イエ」や事業精神、財閥当主や番頭経営者たちの人物像、かれらを取り巻いた人間模様なども含めて、素材は限りない。
今回の『いわゆる財閥考』は、私にとって新たに勉強しながらの作業であった。それは、時代(世間)は財閥をどう見ていたのか、もう一度、財閥の経営史を経済史的に考え直してみる作業であった。
[しもたに まさひろ/京都大学名誉教授、住友史料館館長]