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「生きること」を歴史から問う⑥ 焼ケナイモノハ有徳ナル者?

大川 啓

2001年に大学院に進学した私は、修士論文のテーマとして、秋田市の米騒動を選んだ。その資料調査のために秋田市立図書館明徳館を訪れた際に出会ったのが、「俵屋火事 秋田新聞『秋田市の今昔』記事」(秋田市史編纂事務室、1942年収集)と題された史料だった。「俵屋火事」とは、1886年4月30日に発生した大火災の通称である。秋田町全戸の約46%が罹災し、近世の町人地で商業が集中していた外町の大部分が壊滅状態となった。この火災をテーマとする本史料は、「大正四五年頃」の『秋田新聞』の記事の写しとされる(原史料については、現存を確認できていない)。市史編纂のために収集されたもので、1951年刊行の『秋田市史』下巻に引用されている。特に興味深かったのは、火元間近にもかかわらず延焼を免れた那波三郎右衛門についての記述だった。「此の火事に那波家に駈け集った人の数は、何百人であったか数へきれない。人の山、人の浪、之れが能く防ぐ防火壁ともなり、消火の水ともなって、少しの破損する処もなく類焼を免れたのであった。噫、那波家の徳の偉大さ」。俵屋火事で延焼を免れたことが「那波家の徳」の証しと語られ、大正期の新聞がそれを顕彰し、その記事が昭和期の自治体史に採録されたことになる。

当時の私にとって、明治期の火災といえば、民衆的制裁としての放火が思い起こされた。1980年代後半から1990年代にかけて、稲田雅洋氏や鶴巻孝雄氏、牧原憲夫氏らにより、負債農民騒擾をはじめとする近代成立期の民衆運動について、近世からの連続面とそれを根拠とする民衆の自律性を重視した研究が進められた。そこで、富者は、共同体規制から解放され、経済的自由のもと自己の利益を追求する側面が強調された。鶴巻氏の「焼カルゝモノハ不徳ナル者──民衆的制裁としての〈放火〉」(『近代化と伝統的民衆世界──転換期における民衆運動とその思想』東京大学出版会、1992年)も、そうした富者に放火で対抗する民衆の動向を論じている。だが、「俵屋火事 秋田新聞『秋田市の今昔』記事」が示す那波家のイメージは、鶴巻氏らの「不徳ナル」富者像とは大きく異なっていた。いわば「焼ケナイモノハ有徳ナル者」である。

「俵屋火事 秋田新聞『秋田市の今昔』記事」という史料との出会いから、私はいくつかの問いを得た。その一つが、「那波家の徳」を歴史的に位置づけることである。那波家は、八代目の三郎右衛門祐生が、文政12(1829)年に感恩講(救貧事業・施設)の創設を主導したことで知られる。明治・大正期の公文書や新聞など関係史料の調査を続けると、感恩講の存続・維持の面においても那波家が代々貢献してきたこと、災害時の救助支援活動を積極的に展開していたことも確認できた。そうした福祉活動が、明治中後期の社会で有していた意味を検討したのが、拙稿「明治期の都市火災と地域社会──地方都市秋田を事例として」(『史苑』73巻2号、2013年)、拙稿「近代日本における名望と地域福祉の社会史──20世紀初頭の秋田市における資産家の福祉活動を中心に」(『歴史学研究』929号、2015年)である。そこでは、福祉活動の積み重ねによって、那波家が地方新聞から「積善の家」と目されていたこと、災害時などには、那波家の動向やその新聞報道が、秋田市の富者に福祉活動を促す圧力の一つとなっていたことなどを論じた。明治中後期の秋田市には、たとえ「不徳ナル」富者であったとしても、地域福祉を支えざるを得ないような磁場が働いていたことになる。

だが、史料からの問いは、まだ残されている。それは、「那波家の徳」という語りとその影響力の起源を明らかにすることである。具体的には、「積善の家」という那波家のメディア表象や福祉活動を促す地方新聞のあり方などについて、それぞれの登場や定着の過程を明治前期に遡って検討することが必要となる。それはまた、感恩講が明治維新後も存続した歴史的背景を問い直し、ひいては、地域の歴史の現場から、「生きること」の問い方を考えることにもつながるだろう。そうした課題に現在の私がどこまで応えられるのか、2021年刊行予定の大門正克・長谷川貴彦編著『「生きること」の問い方──歴史の現場から(仮)』所収の拙稿「近代民間福祉の出発──明治前期の秋田町を対象として」をご覧いただきたい。

[おおかわ ひろむ/神奈川大学准教授]