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C・H・アレクサンドロヴィッチとは誰か

大中 真

世の中には、生前大きな名声を得て、存命中は誰もが知る存在でありながら、死後急速に忘れ去られる人物が少なくない。かつてアーノルド・J・トインビーは、当代随一の知の巨人として大きな知的影響力を日本社会に与えていたが、当時年少だった筆者さえ未だにそのことを覚えている。彼は「チャタムハウス」の名で知られる英国の王立国際問題研究所の初期の活動に非常に重要な役割を果たし、畢竟の大作『歴史の研究』を書き残した。しかし現在、国際関係論の分野において、トインビーの議論や著作を真面目に引用したり、正面から研究対象にする者はほとんどいない。最近の大学生はおそらく、彼の名前すら聞いたことがないだろう。

C・H・アレクサンドロヴィッチ(1902─1975)も、おそらくはそのような部類の人物といえる。当時のハプスブルク帝国領レンベルク(現在のウクライナ領リヴィウ)に生まれた彼は、第一次世界大戦後に独立を回復した祖国ポーランドで法律家として活動していたが、第二次世界大戦によって英国に亡命し、戦争終結後はロンドンで市民権を取得してポーランド系イギリス人となった。やがて独立間もないインドのマドラス(現在のチェンナイ)大学に国際法教授として迎えられ、ここで彼の才能が花開いた。偉大な古代文明と悠久の歴史を持ちながら、大英帝国を支える植民地の地位に甘んじていたインドで、国際法の歴史を深く考察する研究に着手したのである。

マドラス時代のアレクサンドロヴィッチは、霊感を得たかのように次々と業績を発表していった。その特徴は、ヨーロッパだけが国際法発祥の地だったわけではなく、インドなどアジアにも、ヨーロッパ勢力到来以前から独自の自然法が間違いなく存在していた、という主張である。彼はこれを、ヨーロッパ勢力が植民地支配の道具として高圧的かつ一方的に押し付けた「国際法(international law)」と区別して、「諸国民の法(law of nations)」と定義した。この区分は、国際法の世界で一般的ではなく、彼独自の概念である。もちろんここには、ヨーロッパ中心主義に対する強烈な批判が込められている。

彼は、それまで西欧の国際法学者がほとんど注目してこなかった、インド現地に残されていた16─18世紀にかけての公文書、すなわちインド諸侯が英国をはじめとする西欧各国と結んだ膨大な条約を丹念に調査することで、西欧列強による植民地化以前に、ヨーロッパとアジアの間には対等の関係が存在していたことを立証しようとした。彼の視座はインドを超え、中国やアフリカにも向けられており、同様の研究姿勢で条約集やヨーロッパの忘れられた思想家たちの著作を引用することで、自らの学説に対する確信を持ったようにみえる。

彼はインドでの精力的な知的活動によって人脈を広げ、教育者としても後身の育成に尽力し、人望もあったことは、複数回ノーベル賞候補に推薦されていた事実が物語っている。彼の論文や著作、講演はヨーロッパでも注目されたものの、アレクサンドロヴィッチは生まれるのが早過ぎたようである。当時は、ヨーロッパこそ国際法発祥の地であり、それが自らの優れた文明とともに世界中に拡大して恩恵をもたらしたのだ、という学説が圧倒的だったからである。彼はヨーロッパの主要大学に招聘されることはなく、つまり学界の主流には決して受け容れられず、マドラスの次はオーストラリアのシドニー大学に移籍し、晩年最後にロンドンに戻り、富や名声とは無縁のまま、その生涯を閉じた。

しかし、国際関係論の英国学派がアレクサンドロヴィッチの著作に注目したことで(バリー・ブザン『英国学派入門』日本経済評論社、2017年を参照)、彼の思想は命脈を保ち続け、近年の国際法史研究の発展、英国学派の興隆によって、再び脚光を浴びはじめた。さらに西洋偏重を脱するグローバル・ヒストリー研究が文字通りに地球的規模で進展し、アレクサンドロヴィッチの名に言及されるようになった時機に、日本で初の翻訳かつ本格的紹介となる彼の論文集『グローバル・ヒストリーと国際法』が刊行された。原書編者であるアーミテイジとピッツによる長編の人物および作品解説(世界初である)と合わせ、ぜひアレクサンドロヴィッチの先駆的思想を日本の読者にも味わっていただきたいというのが、訳者一同の願いである。

[おおなか まこと/桜美林大学教授]