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「生きること」を歴史から問う⑥  女・子どもの「いのち」を守る社会的紐帯の形成

沢山 美果子

「生きること」をタイトルに掲げた二冊の近世史研究の著書、塚本学の『生きることの近世史──人命環境の歴史から』(平凡社、2001年)、倉地克直の『「生きること」の歴史学──徳川日本のくらしとこころ』(啓文社、2015年)が刊行されたのは、2000年代に入ってのことである。

人々の生きることへの努力や生きようとする意志に着目した2冊の著書では、人々が生きた現場と経験に即し「生きること」を立体的にとらえるための魅力的な試みが展開される。そこでは、生の痕跡が残りにくいが故に忘れられがちな弱者である女・子ども、老人にも眼が向けられる。

私が対象とするのもまた、女と子どもの「生きること」に他ならない。しかし、1990年代末に鹿野政直が指摘したように「人が何ヲシタカに関心を集中させ、如何ニ生キタカをほぼ等閑に付してきた」歴史学では、男性が叙述の中心となり女性は多く歴史叙述から排除されていた(鹿野政直『鹿野政直思想史論集 第七巻 歴史意識と歴史学』岩波書店、2008年)。その意味で「生きること」をテーマにすることは、女・子どもの存在を歴史のなかに浮かび上がらせることを意味する。

では、どのように女・子どもの「生きること」に迫るのか。故郷の福島を「フクシマ」に変えた2011年の東日本大震災の経験は、歴史のなかで人々が日常的におこなってきた「いのち」をつなぐ営みを明らかにすることを私に迫るものであった。以来私は、人々のいのちをつなぐ営みを、女の身体と子どものいのちの結節点にある出産と授乳に焦点をあて、生きた一人ひとりに即して具体的に探ることを試みてきた(沢山『江戸の乳と子ども──いのちをつなぐ』(吉川弘文館、2017年)。

ここでは、その関心をさらに発展させ、いのちをつなぐ営みが、幕末から近代初頭へどのように転換していったのか、男の日記を手がかりに探る。 

近年、今までの歴史のなかでは無名とされてきた女・子どもの姿を浮かびあがらせる史料として注目されているのがエゴ・ドキュメント(自己文書)と呼ばれる日記、書簡など一人称で書かれた「個人の語り」である(長谷川貴彦『現代歴史学への展望──言語論的展開を超えて』岩波書店、2016年)。

近世社会は、すべての身分で日記をつける人々が登場した時代だが、その多くは男の日記である。しかし、男の日記には、男性家父長にとって重要な、家をつなぐ営みである出産や授乳についても詳しく記されていたりする。出産は、家と共同体がさまざまな儀礼や贈答を通して新しい構成員を迎え入れる社会的な出来事であり、乳は子どもの命綱だったからである。

今までの日記研究の多くは、書いた男自身に着目してきた。しかし書かれた側の女・子どもに着目するとき、違った様相が見えてくる。男の日記を、女・子どもの側から、出産と授乳に焦点をあてて読み解き、人々が生きた時空間を絵図などの史料と重ね合わせて明らかにするとき、人々がいのちをつなぐために行った営みが具体的な相貌を見せてくる。

取り上げるのは、幕末に書かれた「桑名日記」「柏崎日記」、そして近代初頭に書かれた「業合日記」である。桑名と柏崎に離れて暮らす二つの家族が、お互いの暮らしや子どもの様子を伝えあうために、1839年(天保10)から1848年(嘉永1)まで約10年間にわたって交換し合った書状の日記、「桑名日記」「柏崎日記」からは、離別して実家に戻りシングルマザーとして子どもを産んだ娘の、また、地縁・血縁を離れた赴任先の柏崎での夫婦二人の出産と子育てが、そして近代初頭、1880年代の「業合日記」からは、他家に嫁いだ娘が産後死去し、残された赤子を、父や夫が医者などの助力で育てる様が見て取れる。
母と子のいのちが奪われやすく、生と死が背中合わせだった幕末から、産科医療や種痘により母と子のいのちの安全がある程度保証されるようになる近代初頭へ。その歴史的変化のなか、様々な矛盾や葛藤をかかえつつ、生きた現場の状況に応じ、人々がいのちをつなぐために紡いでいった「社会的紐帯」とは。そして、近世から近代への転換とは。生きた人々の側からみるとき、どのような経験だったのだろうか。

詳しくは、2021年刊行予定の大門正克・長谷川貴彦編『「生きること」の問い方(仮)』をお読みいただきたい。

[さわやまみかこ/岡山大学客員研究員]