もう一つのナゴルノ・カラバフ問題

中川辰洋

2020年9月末、アゼルバイジャンによって戦端が切り開かれた(可能性の高い)隣国アルメニアが実効支配するナゴルノ・カラバフ自治州──アルツァフ共和国──を巡る軍事衝突は、約1カ月半にわたり戦闘と履行の意思のない停戦をくり返した末、11月ロシアの仲介によって双方が武器を置くことに最終的に合意した。

それによると、アルメニア、アゼルバイジャンおよびロシアの三国は、アルメニアが紛争以前の支配地域のうち首都ステパナケルトとラチン回廊を除く地域をアゼルバイジャンに返還するとともに、アルツァフ共和国として残る地域についてもロシア軍が駐留し、ロシアとトルコによる向こう五年の平和維持が盛り込まれた。

今次停戦協定はアルメニアの事実上の敗戦を意味し、ためにこれを不服とする国内の停戦反対派は首都イェレヴァンの国会議事堂などを占拠して政府への抗議運動を展開、11月16日外相が辞任する事態となった。

この間の軍事衝突によるアルツァフ側の兵士・民間人の死傷者は数百人と過去最大となったうえ、砲弾によって多くの建物が破壊された。ソ連崩壊前夜の1991年、民族、宗教上の相違から独立したアルツァフ共和国の命運は風前の灯火であり、しかも今次停戦合意ではナゴルノ・カラバフの将来的な帰属が明記されていなかったことから、ロシア軍が撤退する5年後には、アルツァフ共和国が地図上から消滅する可能性も否定できない。

アゼルバイジャン南西部の飛び地で、アルメニアに支援されたナゴルノ・カラバフの多数派民族アルメニア人が建設した人口20万人(うちアルメニア系約15万人、2013年)に満たない超ミニチュア国家が世界的に注目される理由は、民族や宗教の相違に根差す対立もさることながら、その国家建設のあり方にあり、西欧諸国によって「壮大な実験場」に喩えられてきた。

その最大のポイントは、政治、経済、社会、教育・文化の隅々で女性たちが指導的役割を担っている点にある。この超ミニチュア国家の場合、全人口の四半分に相当する約五万人の成年男子が国境線に張り付き、女性たちが国家の中枢で積極的に働くようになった結果であり、フェミニズムやジェンダー格差の是正の帰結ではない。

ナゴルノ・カラバフの女性たちの真の敵はアゼルバイジャンというよりも、むしろ貧困、かれらを縛り付けてきた家父長制であった。この20年の間、戦争に明け暮れる男性に代わって、女性たちは社会のさまざまの集団や組織を統率する存在となった。実際、政治家となる者、高等教育や司法やビジネスの責任者に任命される者、さらには士官候補の軍人も多数にのぼる。

2年半前アルツァフ共和国で取材したドイツ有力週刊誌Der Spiegel の記者によると、ある閣僚(当時)は「戦争が女性を強くした」と語ったという。百人近い部下を持つ身になって、学校や教会やモスクの修復、諸外国との文化交流などで成果を上げたが、それはつぎの二つをモットーとしたからであったと閣僚は述懐する。一つは「柔軟であること、地位や権力に執着しないこと」、いま一つは「人の話に耳を傾けること、そのためには話す機会を与えること」の二つである。無暗に人を拒絶したり驕慢にならず、妥協点を探すことも大切という。この閣僚は続ける。「ここは女性への暴力とは無縁の社会です。世界中でここよりも女性たちにとって安全な場所はないと確信します」。

アルツァフ大学の当時の学長によると、女性たちの大学進学率が高まり、職業などの選択肢が広がった。いまや女性の約9割は職業をもっており、女性管理職は10年前の3倍に増え、とくに公務員では管理職の6割は女性といわれる。学長は「女性は柔軟で、責任感が強いことに加えて、教育水準の向上が主因です。これからは国際交流を盛んにして、他国への留学や外国人の受け入れ態勢を充実したい」と抱負をのべた。

ドイツ週刊誌の記者がじかに見た「女性たちが社会の指導的地位に就いて社会を切り盛りする」アルツァフ共和国は、訪問前に社会学者が記者に伝えた話とほとんど変わらなかったようで、多くの欧米の研究者たちがこの国の「壮大な実験場」に惹かれる理由の一端を理解できたという。だが、2020年11月の停戦合意によってこの国の将来が不確実領域に入ったいま、人間社会の将来を展望する壮大な実験にも終止符が打たれようとしている。

[なかがわたつひろ/青山学院大学教授]