伊場遺跡の存亡が物語る現実

荒木田岳

行政府の暴走に、いかに歯止めをかけるか──これは、遺跡の保存にとどまらない、古くて新しい問題である。

公文書の改ざんは記憶に新しいが、福島原発の事故を間近で経験した筆者にとって忘れられないのは、「子ども被災者支援法」である。2012年6月に衆参両院で全会一致にて可決されたこの法律は、福島第一原発事故の被害者にとってかけがえのないものであったが、政府・復興庁は、その後一年以上にわたり法を具体化するための基本方針策定をサボタージュした上、法律を骨抜きにするような基本方針を、一度の公聴会も開かずに策定した。関係省庁との協議の際の議事録も作成されなかったとされ、事実関係の検証もできない。公文書改ざんにも前史があったわけである。もっとも、法律自体が支援内容は内閣が決めるとしており、骨抜きは既定方針であったという見方もできる。

いずれにせよ、国策の過ちを認めず、事態を「風評被害」として過小評価し、その結果として被害者救済の途を閉ざした。これが行政府によってなされたことは記憶されてよい。政治決着の途は、行政によって封じられたのである。しかも、政治家の場合と異なり、お役人は選挙の洗礼を受けることもない。だから、行政を変えることは政治を変えることよりもはるかに難しい。

このたび刊行される『開発事業と埋蔵文化財──伊場遺跡をめぐる開発・保存運動・訴訟』でとりあげた伊場遺跡開発の顛末を眺めれば、そのことが再認識されよう。

伊場遺跡(静岡県浜松市)は、郡衙跡や木簡、木甲などの出土品で注目を浴びたた縄文時代から鎌倉時代にかけての複合遺跡であったが、開発計画のため1973年に静岡県の史跡指定を解除され破壊された。伊場遺跡の場合、本来的な問題は史跡指定地を開発することの適法性如何にあった。

しかし、それが「開発か保存か」という比較衡量に置き換わった点に、巧妙な争点のすり替えがあった。しかもそこには、保存運動を担う側に保存の必要性を説明させるという、論証責任の転換も仕組まれていた。

史跡指定地を開発計画に組み入れることは明らかに違法であるため、実際には鉄道高架化の予定地に含まれてはいなかった。しかし、その点は周知されずに、「高架化を望む住民と、高架化に反対する保存運動との対立」という構図が作り上げられた。それゆえ、「当該史跡の重要性を人々に理解してもらうこと」を目標として設定したふしもあるが、現在から振り返れば、そのこと自体に錯誤があったようにも思われる。

他方で、開発者側は、「指定解除」すれば指定地でなくなるから問題は解決すると考えたようで、指定解除処分が適法かどうかなど、ほぼ考慮されなかったとみられる。計画は結論ありきで実施され、異論はことごとく排除された。

この、指定解除処分の適法性を争った裁判も、15年間の公判の後に、「当事者適格がない」という形式的理由で、訴えが門前払いされた。つまり、行政が開発のために史跡指定を解除し、遺跡を破壊しても、住民がその違法性を問うことはできないと裁判所は判断したのである。ここにおいて司法の果たした役割とは、一体何であったかと考えざるをえない。

一連の過程を眺めれば、一見、遺跡の存廃問題をめぐって争われたように思われるこの問題は、実際には伊場遺跡保存の問題にとどまらず、行政と司法と私たちをめぐる、より大きな問題を提起しているのではないだろうか。

行政をルールに従わせる──これを実現するのは権力側の自制やチェック・アンド・バランスではなく、人々の、行政に対する不断の監視と日常的な交渉である。つまり、行政と住民の緊張関係をどう築いていけるかということであり、それが伊場遺跡保存運動や当該訴訟の教訓であった。遺跡存廃をめぐって、延々と続けられた、うんざりするような交渉の日々は、そのことを何より雄弁に物語っていると思われる。

人生最後の20年を伊場遺跡の保存にかけた二人の原告、芝田文雄と山村宏は、文字どおり命を削りながら運動や裁判に臨み、国民的議論を喚起し、国会や裁判所をも巻き込んで計画の見直しを迫った。結果として、伊場遺跡は線路の下敷きにされ、裁判でも敗北を余儀なくされはしたが、半世紀前の彼らの営みは、多くの教訓を今日に生きる私たちに伝えている。

終わりの見えない長い長い運動や裁判を通じて、彼らは「希望の種」をまいたわけである。

[あらきだ たける/福島大学准教授]