欧州統合史と「東アジア共同体」

廣田功

「東アジア共同体」をめぐる動きが活発になりつつある。筆者は、EEC結成から半世紀を経た昨年四月、「欧州統合の半世紀と東アジア共同体」に関する国際シンポジウムを企画した。その報告集が日本経済評論社から出版される機会に、欧州統合史から見た東アジア共同体について、少し考えてみよう。

統合の範囲と方法

東アジア共同体について、構成国と統合方法に関して合意が成立していない。欧州統合の場合も、統合開始に至るまで半世紀以上にわたり、統合の範囲と方法について多様な議論が展開されたことはあまり知られていない。1900年のフランス政治学会で「欧州合衆国」が論じられた際、「欧州連合」の結成にとって、「目的・範囲・方法」が根本問題であると指摘された。爾来、これらの点は統合史を貫く根本問題であり続ける。第一次大戦後、目的についてほぼ合意が成立するが、範囲と方法については論争が続いた。範囲については、「欧州大陸」全体の構想から始まり、1920年代末、経済発展段階が相対的に類似し、地理的にも近い地域に限定した「地域同盟」の構想が生まれた。30年代には後者が次第に優勢となっていった。第二次大戦後、この二つの構想の並存は、「小欧州」と「大欧州」の対峙に形を変えて続いた。
方法についても二つの立場が見られた。一つは市場の力による統合で、関税同盟の結成による自由貿易圏の創出を具体的方法と考えた(自由主義的方法)。もう一つは、市場を通じた統合を重視ししながらも、加盟国間、国内の利害調整の必要を重視し、政府や民間団体による市場統合のコントロールを必要とみなした(契約的方法)。後者は、社会政策の統一を重視したことも看過してはならない。
ECSCを契機とする仏独中軸の6カ国の「小欧州」の方向は、半世紀以上に及ぶ議論の遺産の上で可能となった。根本問題をめぐるこの長い「前史」に照らせば、東アジア共同体の場合、ようやく根本問題が論じられ始めたとみなされ、合意の未成立は当然のことと言えるかもしれない。同時に重要なことは、欧州統合史の場合、この根本問題への対応が世界経済や支配的な経済思想の動向に規定されて変化したことである。「自由主義的方法」の限界に対する批判は、1930年代と戦後復興期における古典的な自由主義への批判の風潮と強く結びついていた。今後の世界経済と経済思想の方向と関連して、東アジアにおけるこの問題への取組が大いに興味をひくところである。

統合の主体と政治的意思

範囲・方法の問題は、統合の主体の問題と関連する。欧州統合が強力な政治的意思によって推進されたことはよく知られている。経済的依存関係が東アジアの現状より低い段階において、しかも加盟国を拘束する共通制度・政策を進めるために、それは不可欠であった。しかし政治家や官僚層以外の主体が重要でなかったというわけではない。「前史」の段階から一貫して財界のコミットは積極的であった。財界のコミットは、しばしば政治的意思に先行していたとさえ言える。したがって欧州統合を単純に政治主導と決めつけることは誤解を招くかもしれない。政治主導の含意は、根本問題に関する企業家・経済団体の積極的コミットを前提として、加盟国間・国内の利害を調整する能力にあった。財界の主張がそっくり採用されることはほとんどなかったが、彼らの立場は政治的意思のイニシャティブにとって重要な考慮の対象であった。たとえば、ECSCに関するジャン・モネの提案やローマ条約交渉の推移は、仏独間の財界の利害の調整やフランス国内の農工利害の調整を抜きにしては理解できない。
しかし欧州統合史の特徴の一つは、「エリート主導」にある。それは政治的意思の重要性と裏腹の関係にある。大多数の市民は、1990年代初頭まで統合にほとんど無関心であった。市民レベルの交流が本格的に始まるのはやっと1960年代半ば以後のことである。市民の関心や市民レベルの交流からみれば、東アジアの方が進んでいる。もちろんこれが共同体の結成に直結するわけではない。しかし戦後数年にして動き出す「仏独和解」に直面した仏独市民の抵抗感に比べて、これが統合の実現に有利な条件であることは疑いない。しかしこの有利な条件を共同体結成に活かせるかどうかもまた政治的意思に関わることであることは言うまでもない。                  [ひろた いさお/帝京大学経済学部]