青木栄一先生の思い出

老川慶喜

青木栄一先生が、2020年5月4日に亡くなられた。あいにく新型コロナウィルスが蔓延しており、最後のお別れはできなかった。先生には、研究者として駆け出しの頃からお世話になってきたので、残念でならない。

先生と初めてお会いしたのは、私がまだ高等学校の教員をしているころだったので、もう40年以上も前のことになるが、当時神田神保町にあった日本経済評論社から出版された『明治期鉄道史資料』(1980年から刊行開始)の編集会議に呼ばれたのである。大学院時代から指導を受けていた法政大学の野田正穂先生から、鉄道史の資料集を刊行することになったからお前も手伝えと言われ、出かけて行ったら、そこに野田先生、原田勝正先生、それに青木先生がおられた。

青木先生については、原田先生との共著『日本の鉄道──100年の歩みから』(三省堂、1973年)や『地方史研究』に掲載された「下津井鉄道の成立とその性格」(1969年)という論文の著者として知っていたが、お会いしたのはもちろん初めてであった。先生は交通地理学を専門とする研究者であったが、同時に、あるいはそれ以上に「鉄道マニア」であった。ともかく、鉄道(というよりは交通一般)については、文献や資料についてはもちろん、技術や人物に至るまでおそろしく詳しかった。アダム・スミスやマルクスの経済学説史の研究者として知られていた内田義彦氏の「明治経済思想史におけるブルジョア合理主義──田口鼎軒の鉄道論」という論文に触発されて、両毛鉄道に関する修士論文を書いたばかりの私にとっては、世の中にこのような人がいるのかと大変な驚きであった。

鉄道史資料の刊行は順調に進み、「明治期」から「大正期」「明治期Ⅱ」「大正期Ⅱ」「昭和期」と続き、合わせると200冊に近いシリーズとなった。編集会議では、鉄道史の資料や文献についてさまざまな角度から議論がなされ、私には大変魅力的な場であった。編集会議を何回か重ねると、鉄道史の通史を作ろうということになって、私が仮目次を作ることになった。今から考えるととても恥ずかしいものであったが、先生から丁寧に修正していただき、1986年に『日本の鉄道──成立と展開』として出版することができた。

私は「鉄道の街」として知られる埼玉県大宮市(現・さいたま市)の住人だったので、若いときから「大宮市史」の編纂などにかかわってきた。そうした縁からか、私が30代の後半に差しかかった頃、大宮市役所から当時万世橋にあった交通博物館を大宮市に誘致する運動を始めるので、委員長に就任してほしいという要請があった。「交通博物館誘導準備委員会」というのが委員会の正式名称であったが、青木先生が専門家として委員に加わってくださった。本来ならば、青木先生が委員長で私が委員になるべきであったと思うが、私が大宮市の在住者であるということで先生からも委員長になれと勧められた。

先生の鉄道博物館にかける思いは強く、英国のヨークにある国立鉄道博物館のようなものを作るべきだということをさまざまなところで発言してくれた。委員会では、中国や韓国から研究者を招いて、鉄道博物館はどうあるべきかをめぐるシンポジウムを開催したりして、鉄道文化の市民への浸透をはかったが、そこでも先生は快くパネリストを引受けてくれ、鉄道博物館について積極的に発言してくれた。私が何とか委員長を務めることができたのも、青木先生のおかげだと思っている。

鉄道に造詣が深く、博識ではあったが、先生は必ずしもパンクチュアルではなかった。鉄道史資料の編集会議では、ちょうど会議が始まるころに「今、九段下の駅にいるのでまもなく着く」というような電話がよくあった。また、大宮市の交通博物館誘導準備委員会にも、しばしば、しかも大幅に遅刻してこられた。しかし先生は、そうしたときに少しも悪びれることなくいつも堂々とにこやかな顔をして現れた。そこには、「大物」の風格が漂っていた。

鉄道史学会の立ち上げにもご尽力をいただいた。アカデミズムの研究者だけでなく、いわゆる「鉄道マニア」の方にも会員になってもらおうということで、自ら率先してマニアの方を勧誘してくれた。鉄道史学会での先生の人気は大変なもので、当時は今と違って役員を会員による投票で選んでいたが、先生がいつもダントツの一位であった。先生は第四代会長に就任され、現在の鉄道史学会の礎を築かれた。

青木先生、長い間お世話になりました。どうぞゆっくりお休みください。

[おいかわ よしのぶ/立教大学名誉教授]