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  • PR誌『評論』218号:「生きること」を歴史から問う⑤  東北大凶作のなかを生き延びる

「生きること」を歴史から問う⑤  東北大凶作のなかを生き延びる

鬼嶋 淳

1934年、東北地方は大凶作に襲われた。特に1931年の冷害・凶作、1933年の三陸大津波と災害が続いていた岩手県は、北部を中心に最大の被害地域となった。この「東北大凶作」は、昭和恐慌期を特徴づける出来事として、これまで1930年代前半の「窮乏した農村」を示す通史の一コマとしてたびたび紹介されてきた。

従来の東北大凶作に関わる研究ではいくつかの特徴がある。第一に、飢饉研究である(菊池勇夫『飢饉』集英社新書、2000年など)。第二に、東北振興との関連に注目したものである(岡田知弘『日本資本主義と農村開発』法律文化社、1989年など)。第三に、生活改善や母子保健活動に注目した研究である(野本京子「戦時下の農村社会をめぐる動向」『戦後日本の食料・農業・農村 1 戦時体制期』農林統計協会、2003年など)。第四に、従来の東北凶作イメージは気象条件による貧困・悲惨さを強調しすぎていると批判し、その「窮乏した農村」イメージは「都市からの視線」であり、実際は政府の米穀政策に問題があったという研究である(河西英通『続・東北』中公新書、2007年など)。こうした潮流のなか、大門正克は、凶作を含む昭和恐慌期は、生存を維持する仕組みが大きく崩れ生存自体が問われた時代である、と指摘した(大門正克『全集日本の歴史 15 戦争と戦後を生きる』小学館、2009年)。

このように、様々な面から東北大凶作が明らかになるなかで、「生きること」と関わらせて東北大凶作を研究する重要性が見えてきた。しかし、東北農民の側から捉えた東北大凶作研究はそれほど多くはない。

現在、グローバル化と新自由主義が進むなかで格差が広がり、「貧困」問題が浮上し「生きること」が問われている。地域住民が自らの地域のあり方を考え対応する取り組みはあるものの、中央集中が進み地方は切り捨てられ、経済効率化や合理化といった視点から事業が強行される傾向が強い。災害からの復興についても同様のことがいえるだろう。

こうした現在に、東北大凶作の時代の「生きること」を問うには、従来のように東北大凶作の被害状況や凶作哀話の紹介、凶作対策を明らかにするだけではなく、凶作下の農民側、農民が暮らす地域の視点から検証する必要がある、と私は考えている。

もちろん簡単な問いではない。これまで農民側に視点が当てられなかった要因は、被害にあった農民の声を直接示す史料の探索が困難であり、凶作対策の担い手側に焦点があてられてきたためである。そこで、私は、近年の「史料読解」をめぐる研究を参照にして(「特集 史料の力、歴史家をかこむ磁場(Ⅰ~Ⅲ)」『歴史学研究』912~914号、2013年11月~2014年1月)、被害状況や取り組みを示すために利用されてきた統計やルポルタージュ、調査報告書、対策事業の実施報告書などを次の点に留意して読み解きたい。第一に、凶作前後の変化に注目する。第二に、ルポルタージュや報告書には調査者・作成者等の視点が反映されることから、作成者の意図や背景、史料作成過程などに注意を払い、いくつかの史料を照合する。第三に、対策の担い手(記述者)と被害農民(対象者)との関係性を注視したい。そのことで、従来のような大凶作による悲惨な生活、困窮する生活の対象だけではない、大凶作のなかを生き延びる農民の姿に接近したい。

東北大凶作下、もちろん現在でも、人は一人で生きていくことはできない。地域のなかで、関係性のなかで生きている。地域や人と人との関係性は固定的ではなく流動的である。現在、人々の生活や地域社会を立て直すために凶作対策に取り組んだ担い手と被害農民との関係性に注目して、1930年代の医療・保健衛生・母子衛生活動を検討している。近代的知識を有した地域内外の活動の担い手は、農民を啓蒙すべき存在として認識したが、農村の実相に触れるなかで啓蒙の方法を変化させていった。一方で農民側は、従来の「習慣」を簡単に手放した訳ではなかったが変化も示した。1930年代の医療・保健衛生・母子衛生活動の過程は、両者の「生きること」のせめぎ合いの場であったのではないか。

詳細は、2021年刊行予定の大門正克・高田実・長谷川貴彦編著『「生きること」の問い方(仮)』所収の拙稿で論じたい。

[きじま あつし/佐賀大学准教授]