思い出断片 (10) わが幼少の頃

住谷一彦

思い出断片 (10)
わが幼少の頃
住谷 一彦

私も「わが生い立ちの記」を書いてみたいと思うときがあるのだが、和辻哲郎さんの「生い立ちの記」をみると、取る筆が鈍ってしまうのである。私にはとてもあのような精細な描写を書く筆力がない。ただ思い出すままに書いてみようと思う。
私は京都市左京区芝本町に生まれたが、幼少の頃の記憶はほとんどが一本松通りの織田萬さんの土壁が途切れた角にあった家についてである。だが、たまたま軽井沢でお会いして親しくさせていただいた谷川徹三先生から聞いた話で、そうだったのかと思い出すのである。谷川さんはその頃同志社大学で教えており、父悦治とは同僚であった。芝本町の家も隣り同士であったらしく、谷川さんは軽井沢でお会いしたときに同年に生まれた俊太郎さんと私を同じ乳母車に乗せてよく散歩したものだと話して下さった。
しかし、私の記憶は芝本町ではなく一本松の家からはじまる。庭の広いこの家で私はマクリン幼稚園に通い、下鴨小学校に通学した。その頃の私は餓鬼大将で、学校から帰ると、すぐ飛び出して近所の子供たちとワアワアさわいで遊びまくっていた。母がよく語ってくれたが、「ただいま」という声を聞いて「お帰り」といって出てみたら、縁側にカバンだけが放り出されていたという。
その頃は安さんという友達と、あと数人集まって近くの小さな広場で終日遊んでいた。主な遊びは、ベーゴマといって鉄製の2、3センチの独楽をリンゴ箱にむしろを敷いた上で放りこんでは廻っている独楽同士がぶっつかって、一方を箱の外に投げ出したものが勝ちという単純な遊びだった。それをあきもせず夕方暗くなるまで皆で遊んだのだった。
それ以外では軍艦ごっこといって、運動帽のひさしを前にしたのが戦艦、横にしたのが巡洋艦、後ろにしたのが駆逐艦ということで、戦艦は巡洋艦に勝ち、巡洋艦は駆逐艦に勝ち、駆逐艦は戦艦に勝つというルールで、それぞれ陣地をつくって争ったものである。この遊びは男女一緒になってやったので、きわめてさわがしいものだった。
学校では勉強らしい勉強をした記憶はほとんどない。3年までは小西先生という女の先生で和服に紺のはかまをした、やや太めの方が担任だった。4年、5年のときは神戸の六甲小学校に転学し、6年になってもとの下鴨小学校に戻ってきた。6年生のときの担任は諏訪先生といって、太った柔和な方だった。それでも私たち学童はいたずら好きで、冬など雪が降ると、雪をかためて教壇の上の天井にぶっつけておき、それが自然に融けて教壇に先生が立ったとき、ポトポトおちてきて先生がびっくりするのを皆で喜んだものだった。このときはいたずらがすぎるとお灸をすえられ、バケツに水を入れて廊下に授業時間中立たされた。下鴨小学校は古い学校で校舎も古かったせいか、昭和9年の風水害で鴨川が氾濫して小学校が水びたしになったときには、校舎が倒れないように突っかえ棒が立てられたりした。しかし、学校の裏側は下鴨神社の森があり、環境は良かった。校庭はそれほど広くなかったが、皆目いっぱい使って遊びまくった。私は級で一番チビだったが、結構走るのは早く、当時女の子のスカートめくりがはやっていて、よせばいいのに級で一番大きかった芝田さんのスカートをめくって怒らせたのが運のつきで、散々逃げまくったあげく、つかまって組み敷かれ、うんとしぼられた。そのときの彼女の真っ赤に怒った顔を今でも覚えている。
一学年は三組で、い組、ろ組、は組に分かれていた。私はろ組だったが、い組にYさんという、色が白くほっそりとした可愛い女の子がいて、すぐ好きになったが、それは結局私の片思いに過ぎなかった。彼女は同志社女学校に進学したので、私は市立一中を振って同志社中学校に入った。単純にそれが女学校の隣りにあったからである。しかし、私の片思いはそこで終わってしまった。父が四国の松山高商に就職し、私は地元の松山中学に転校することになったからである。松山での生活は中学校だけにとどまらず、旧制松山高等学校に進学したので、松山での生活が長くなり、今では松山が私の第二の故郷となっている。
[すみや かずひこ/立教大学名誉教授]