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五十周年記念特集●経済学研究の「これから」─活路と隘路② これからの恐慌論研究のために

江原 慶

 一昨年『資本主義的市場と恐慌の理論』を上梓した。本書は、マルクス経済学の恐慌論を『資本論』第三巻次元の価値論を起点に考察しようという試みで、二〇一〇年に大学院に進学して以来続けてきた研究をひとまずまとめたものだった。二〇〇八年に世界恐慌が勃発し、それを契機に経済危機について多くの議論が巻き起こったが、実態はかなり詳細に解明されてきた反面、理論的な進展が追いついていないように感じていた。本書はその理論研究の遅れを、自分なりに取り戻そうとした産物である。
 とはいえ、理論と現実の間には常にズレがあるもので、そのズレの歴史的・社会的意味を考えるのが総合社会科学たるマルクス経済学の特性である。恐慌論でも、理論は現実の恐慌現象の引き写しではなく、論理的展開のうちに恐慌を説くものでなければならない。このような信念により、リーマン・ショックの「リ」の字も登場しない本を書くことになった。
 ただ、少なくとも私の理解する限り、日本のマルクス経済学の恐慌論は、そのタイプは数あれど、いずれも概ねこのような純粋理論のスタンスをとってきた。宇野弘蔵の純粋資本主義論は、その最たるものであろう。彼の『恐慌論』(岩波書店、一九五三年)に至っては、一九二九年世界大恐慌の簡単な描写から始まるのに、その理論展開でそれに触れる箇所は一切なく、どういう意味で世界大恐慌が例証になるのかも解説されない。中身はあくまで、論理に基づく「恐慌の必然性」の論証なのである。
 こうした純粋理論としての恐慌論は、マルクスが自身で取りまとめていないテーマを一個の理論として作り上げる上で、抽象化が避け得なかった一例とみるべきかもしれない。そう考えてみると、恐慌論ほどマルクス経済学らしい領域もそうそうない。これは、〈資本主義の矛盾は恐慌によって暴露される〉といった仰々しい命題がマルクス主義的かどうかという問題ではない。マルクス以後の無数の研究者たちによる知的な格闘の末、恐慌論はマルクスという一個人の思想や主義から独立した、理論経済学の一領域として確立したといえる。その意味で、恐慌論はマルクス経済学固有の理論なのである。
 そのように気負ってまとめた本であるが、刊行後二年経って、製造物責任を感じないではない。更なる展開を思いめぐらしているところだが、ここでは右の論点に関連する二つを書き留めておこう(純理論的な点については『季刊経済理論』第五六巻第三号、二〇一九年十月の拙文参照)。
第一に、抽象的な理論の応用性について、踏み込むことができなかった。右に述べた意味で、これは日本におけるマルクス経済学の理論研究の特徴でもあるが、現下のマルクス経済学が置かれる危機的状況に照らして、時宜に適った態度とはやはりいいがたい。現実を見渡してみても、現代資本主義は、自然災害や環境危機など、人類社会を脅かす深刻な事態に直面している。マルクス経済学の恐慌論が、こうした様々な現代社会の諸問題の解明にどのように活かされ得るのか、アクチュアルな考察が求められている(経済危機と環境危機との関連性については、例えば斎藤幸平『大洪水の前に』堀之内出版、二〇一九年、第六章参照)。
 第二に、『資本論』との距離感はもう少し明示できた。『資本論』にまとまった恐慌論がないとはいえ、『資本論』体系と関連づけることで、資本主義の基礎理論のうちでの意義づけをより明確化できたように思う。また、『資本論』を中心として豊かに広がる、マルクスの広範な著作物から、理論的・実践的発展に向けた手がかりを得やすくなったことだろう。マルクス経済学は一分野として確立した体系をもちながら、マルクスの思想・理論から、彼が播いた発展の種を吸収できる柔軟さにも面白みがある。
 かように恐慌論はまさしく、日本の経済学研究の蓄積が詰まった理論であるとともに、解明すべき多くの課題と可能性をもった領域でもある。これを受け継ぎ、アップデートしていくのは、私たちの世代に課せられた学問的義務であろう。拙著の版元・日本経済評論社は、設立五十周年ということだそうである。来るべき半世紀にも、新たな恐慌論研究を発掘し続けてほしい。
[えはら けい/大分大学経済学部准教授]