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「生きること」を歴史から問う① 「結社の時代」を生きる

大月 英雄

 明治一〇年代から二〇年代は、全国各地で多種多様な結社が設立されたことから、「結社の時代」と評されてきた。私の生まれ育った滋賀県でも、一八八一(明治一四)年二月、伊香西浅井郡相救社(後に伊香相救社と改称)という結社が設立されている。伊香・西浅井郡(現・長浜市)の郡長小山政徳の主導で結成され、両郡全域の罹災・救貧事業を担った共済団体である。
 私は二〇一〇年六月、長浜市の江北図書館で「伊香相救社文書」と出会って以来、同社の活動に関心を持ち続けてきた。人びとの生活を支える仕組みが、明治維新後にどのように移り変わっていくのかについて、重要な示唆が得られるように感じられたからである。
 その関心の背景には、格差や自己責任といった言葉が大きな重みをもつようになった、現在の時代状況がある。従来型の「福祉」制度が、機能不全をきたすなか、私たちはどのように生活をつないでいけばよいのか、歴史のなかに探ってみようと考えたのである。
 同社の史料を読み込むなかで、大きな疑問が二つ生まれた。一つは結社設立の背景である。一八八〇年一二月、村連合の総代三七名が県に提出した設立願書には、「今ヤ近年豊作相続キ生計稍饒ナリ、是実ニ備ヘヲ為スノ好機ナリ」と、設立に至った動機が記されている。しかし、それ以上の詳しい説明はなく、「備ヘ」が必要な理由としては、一般的に過ぎる印象であった。
 その後私は、同館所蔵の「伊香郡役所文書」のなかから、一通の上申書を発見した。先の設立願書とあわせて、郡役所が県に提出した文書である。そこには、「地租上納之手段ハ可也相備ルト雖モ、貧民救助及火災水難救与ノ方法ハ全備セス」とあり、従来の備荒貯蓄(飢饉や災害に備えた貯蓄)の問題点が記されていた。同社の史料のみでは、これ以上の設立背景を探ることができないと考えた私は、今度は滋賀県庁にある県政史料室を訪ねた。
 同室で閲覧できる県の行政文書(歴史的文書)を調査した結果、県内の備荒貯蓄制度がよく理解できた。先の上申書の「地租上納之手段」とは、一八七七年四月より、県の指示で積み立てられた「私有」の備荒金(私蓄備荒金)のことを意味していた。七五年の地租改正によって、年の豊凶にかかわらず、定額の地租が賦課されることになったことから、滋賀県では凶作に備えて地租の〇・二五%を積み立てたのである。ただし、あくまでこの貯蓄は地主層の納税対策であり、困窮者の生活難を直接緩和するものではなかった。そこで、伊香・西浅井郡では、「貧民救助」や「火災水難救与」の事業を新たに始めたようである。
 しかし、残された疑問は、なぜ「結社」という形式が選ばれたのかである。一八八〇年四月には、区町村会法が公布されており、当時は町村会の開設が可能となっていた。町村が行う事業であれば、「協議費」と呼ばれた町村費で賄うことができたはずである。町村を超えた範囲でも、町村連合会(後の連合町村会)という広域の町村会の開設が認められており、罹災救助などの公益事業であれば、地方制度を通じた運用が望ましいように感じられた。
 そのようなとき、一八七三年一一月に出された県の布令に目が留まった。区(連合町村)・町村に賦課される諸費用を「公費」と呼び、区戸長の独断で処理することを禁止した法令である。この「公費」は、住民全員に関わる費用と位置づけられ、徐々に具体的費目も定められていった。
 その後制定された区町村会法でも、町村会で審議できるのは、「公共ニ関スル事件」に限定されている。一方滋賀県では、「私有」の備荒金が整備されており、備荒貯蓄=「私費」という観念が浸透していた。そのため、新たに必要な罹災救助費などの審議は、町村会では不適当と考えられたのであろう。伊香・西浅井郡では、郡長主導の公益性の高い事業でありながら、「結社」という形式が選ばれたのである。
 このように「結社の時代」とは、地域社会の成り立ちに必要な諸費用が、「公費」「私費」に分離していく時期にあたる。結社設立が相次ぐ背景には、町村とは別の形で、個人では解決しえない困難を共同的に乗り越えようとする、地域社会の意志があったのである。
 以上の詳しい考察は、「いのち」「生存」「福祉」の歴史から生きることを問う、大門正克・高田実・長谷川貴彦編著『生きることの問い方』(二〇二一年刊行予定)で論じる予定である。ぜひご覧いただきたい。
 [おおつき ひでお/滋賀県県政史料室嘱託員]