ナショナル・ミニマムとマクロ経済

門野 圭司

 今年二月に日本経済評論社から拙編著『生活を支える社会のしくみを考える:現代日本のナショナル・ミニマム保障』を出版させていただいた。本書の序章において筆者は、ナショナル・ミニマムを考えることの必要性について、福祉国家財政論や地域経済論などに基づいて論証を試みたが、議論の粗っぽさへの自覚から、マクロ経済的側面については論を展開することを控えた。しかしながら、幸いにもこのたび、本誌に執筆の機会を与えていただいたことから、ナショナル・ミニマムとマクロ経済との関連について大胆に論じてみたい。
 まず、拙編著の序章をまとめる際に筆者が重視した観点を明記しておくのがよいだろう。それは経済の安定化である。経済の安定化とは、景気変動の振幅を小さく短く、すなわち、できるかぎり経済を完全雇用状態に近づけようとする政策的取組みを指す。経済が安定性を失ってしまうと、一九九〇年代後半以降の日本経済が如実に物語っているように、ブラック企業問題やワーキング・プア問題、ロスジェネ問題などに象徴される雇用環境の悪化、リストラや倒産などを背景にした経済苦による自殺者数の増加、あるいはさまざまな意味での経済格差の拡大・固定化など、社会全体に深刻な悪影響が及ぶことになる。それゆえ、経済の安定化はわれわれの生活にとってきわめて重要な意味を持つ。だからこそ、経済の安定化は経済財政政策の主要な目的となっている。
 にもかかわらず、日本経済がかくも長きにわたって安定性を失ってしまったのはなぜか。グローバル化や情報化など経済環境の大きな変化への対応の遅れにその原因を求める構造改革論、九〇年代初めにバブル経済が崩壊して以降の度重なる金融政策の失敗を強調するリフレ論など、さまざまに説明されていることは筆者も承知している。そのうえで、地方財政の緊縮的な運営を続けてきたこともその大きな要因の一つではないかと筆者は考えている。
 基礎的財政収支で見ると、地方財政は、バブル経済崩壊以降、国の景気対策や内需拡大策に動員されるなかで赤字幅を拡大させていた。しかしながら、九〇年代後半になると赤字幅が急速に縮小し、二〇〇四年以降、現在に至るまで黒字が続いている。賃金低下や人口動態の影響で家計消費や民間企業投資がふるわず、円高基調の継続や新興国の追い上げで輸出もふるわないなか、九〇年代後半以降、地方公共投資の削減を中心手段として緊縮的な地方財政運営を続けたことが地方圏経済のデフレ的状況を持続させ、東京圏への一方的な人口流出が続く事態を招いているのではないか。さらに言えば、緊縮的な地方財政運営を続けているがゆえに、マクロ経済の安定化を図るうえで異次元の金融緩和策への、すなわち民間企業の高投資・高利潤政策への過度な依存を避けることができないのではないか。
 換言すれば、九〇年代後半から〇〇年代にかけてあれほどマスコミで叩かれた無駄な公共事業だが、実はその大部分は、ビルトイン・スタビライザー機能の弱い日本経済において、ナショナル・ミニマムの整備というかたちで、地方圏経済の衰退を防ぎ、ひいてはマクロ経済が安定を保つことに大きく寄与してきたのではないか。さらに言えば、ナショナル・ミニマムの水準を高めつつ地方財政運営のあり方を拡張的な方向へと改めることを通じて、マクロ経済の安定化のために異次元の金融緩和策に過度に依存する事態を回避できるのではないか。
 もちろん、あまりにも荒っぽい議論であるとの自覚はある。また、「無駄な公共事業」論が間違っていたというつもりも毛頭ない。拙著『公共投資改革の研究:プライヴァタイゼーションと公民パートナーシップ』(二〇〇九年、有斐閣)のあとがきに記したように、「公共投資を通じた不透明・不衡平で経済的にも非効率な(地域間)再分配システム」は改められるべきであったと今でも思う。しかしながら、もしも日本において、地域間再分配の縮小をともなう地方財政の緊縮的な運営が、ナショナル・ミニマムを毀損するだけでなく、地方圏経済の衰退の、ひいてはマクロ経済の不安定化の一因となり、かつ、大規模な金融緩和が地方圏経済の浮揚にあまり効果的でないのならば、過去の反省を踏まえたうえで、ナショナル・ミニマムを支えるための地域間再分配システムの拡大を支えに、地方財政を拡張的に運営する方策についてもっと知恵を出し合う必要があるのではないだろうか。
 [かどの けいじ/山梨大学生命環境学部准教授]