「民主主義とシチズンシップ」考

中川 雄一郎

先般、私は、朝日新聞(二〇一八年六月二九日付朝刊)に掲載された「民主主義の限界と可能性」と題するマルクス・ガブリエル氏(ボン大学教授)と國分功一郎氏(東京工業大学教授)の「哲学者対談」の要旨を興味深く読んだ。この対談は、國分氏がガブリエル氏に送っておいた「行政権力が強大な力を持つ現代の政治体制下、民主主義や主権のあり方を問う」を踏まえてのものである。
対談の第一の問題提起は「民主主義の本質とは何か」である。これに対してガブリエル氏は、民主主義の歴史を紐解きながらその本質を「人間が人間として存在するために譲れない諸権利(=人権)に対応し、その権利の実現を目指す政治システム」であると論じ、また「民主主義に内在する価値として『平等』を重視する」ことを明示した。その際に彼は、古代ギリシャの民主主義は「奴隷制」という矛盾を、またフランス革命後のナポレオンによる民主主義の試みは「帝国主義」という矛盾を抱えていたが故の失敗であったことから、「みんなのための民主主義」という「民主主義の最も重要な価値の普遍性を実現できなかったこと」が両者の失敗の共通の原因であると語っている。
その第二はグローバリゼーション下の「民主主義とメンバーシップの平等」に関わる論点である。ガブリエル氏は「民主主義の本質は国民国家と相いれない」と言う。例えば「気候変動や経済的格差といったグローバルな性格を持つ問題に、私たちは国境で線引きして『ここからは関係ない』とは言えない」だろう、と。また、フランスの極右政党党首のマリーヌ・ルペン氏の「『フランスのことはフランス人が決めよう』という発言は『外国人は入れるべきではない』という排他的な主張」であるとする國分氏も、外国人に「グローバル社会のなかで、政治的な決定権をどこまで、どう与えるかが重要な問題」であると指摘する。
第三は「民主主義の限界」を踏まえた「(国民国家を超えて)シチズンシップを与える民主主義の形式」の転換についてのガブリエル氏の構想である。これは「国民国家の『外枠』に放出された難民や移民も本来は民主主義の下で自分たちの人権を求めることができる」正当性を民主主義が担保する、との構想でもある。この構想に理解を示した國分氏は「主権の概念」を問題にして、それでは「国民国家という枠を取り払った時に、主権はどういう形で担われることになるのか」と問うた。それに答えてガブリエル氏は「普遍的な価値システム」としての民主主義の重要性をこう強調した。「『主権』という概念はいりません。主権なしに新しく民主主義について考える必要があります」と。私はガブリエル氏のこの回答の意味をどう理解すればよいのか、両氏の議論の流れを辿りつつしばし考えた。そして出てきた私の結論は「グローバリゼーション下での難民・移民の人権は民主主義とそれを支えるシチズンシップとに基礎を置いている」というものである。その根拠を私の言葉で表現すれば、次のようになる。すなわち、それは、民主主義の限界を踏まえつつ、国民国家を超えたシチズンシップに支えられる民主主義の新たな形式と秩序の確立である。
私のこの結論は、「シチズンシップは国籍を求めない」し、むしろシチズンシップが人びとを包摂する可能性を明らかにするためには、シチズンシップの概念が「国民国家」との結びつきから解き放されなければならない、と考えていることによる。なぜなら私は、民主主義を支えるシチズンシップをより社会包摂的にしていく鍵は「国家には本来的に人種や民族、家父長制や階級に基礎を置く性質がある」ことを人びとが常に意識することだと思っているし、またシチズンシップは国籍に関わりなくすべての人びとに及ぶ人権の包括的な理念になっていくだろうと期待しているからである。
そして第四は「民主主義の価値とは何か」である。國分氏は「日本では民主主義=多数決となる傾向は『変なこと』」だと指摘し、ガブリエル氏は「ドイツでは多数決ではなく、合意を形成していくことを重視されている」と述べているが、この相違は、日本の私たちが「民主主義の概念」を取り違えて理解しているからである、と私は思っている。「民主主義は多様な市民同士の間の関係を築いていこうと努力するプロセス」なのである。
[なかがわ ゆういちろう/明治大学名誉教授]