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留学生史研究の〈世界〉の深さと広がり

見城 悌治

日本で学ぶ留学生数は、二〇一七年五月現在、二六万七〇四二名を数え、過去最高となった(うち、高等教育機関の留学生は、一八万八三八四名)。このまま増加していくと、「二〇二〇年までに留学生数を三〇万人にする」という政府方針も達成されそうな勢いである(それに付随する諸問題については、ここでは触れない)。
近代日本が、留学生を受け入れた端緒は一八八一年の朝鮮人留学生であった。また中国人留学生の来日は一八九六年から始まり、日露戦争後には、戦前期で最大の一万人余りの中国人が学んでいたとされる。一九八三年に中曽根内閣が留学生の積極的受け入れを宣言した段階でも、全留学生数が一万人程度であったことを勘案すると、戦前期のこの数字には驚かされる。
近代日本で学んだアジア留学生の研究は、中国近代史研究者を中心に行われてきた。日本社会が舞台であったにもかかわらず、日本史研究者はあまり意識してこなかった分野と言える。そうしたなか、「留学生センター」教員を二十年余り務め、近代日本の思想文化を主たる専門とする筆者がまとめたのが、『留学生は近代日本で何を学んだのか』である。
新たな研究課題を模索していた筆者は、勤務先(千葉大学)の戦前期の留学生──医学薬学、園芸学、デザイン学、師範教育を学んでいた若者について調べてみようと軽い気持ちで着手した(対象者の多数は中国人。狭義の「留学生」ではない朝鮮、台湾出身者や戦時下の南方留学生なども含む)。素朴な関心から出発したため、見通しもなかったが、手探りの作業過程で、次第次第に、留学生を囲繞する歴史の諸相──修学した学問内容、日本社会と留学生の「交流」と「軋轢」、帰国後の活動の多様性、出身国と日本との関係性等々──を知り、新たな発見に驚き、そこから次の関心が派生し、検討課題が続々と生まれていった。
それらの事例のいくつかを紹介しておこう。千葉大学医学部前にひっそりと立つ石碑は「辛亥革命」に留学生たちが関わった記念碑で、きわめて歴史的な意義を持つこと。園芸学を学ぶ中国人留学生が持参したスイカの育成に成功した教員が、品種名に学生の名前を入れ、今でも流通していること。戦前の師範学校に留学生はいないはずと思い込んでいたら、一九三五年から「満州国」が自前の「日本語教育人材」を養成するため、派遣を始めたこと、などである。つまり、留学生と近代日本社会の間には、忘れられた事案も含め、数え切れない関係性が輻輳していたことを再認識できたのである。
「日本史」の枠に留まっていた筆者は、留学生を媒介にしてこそ見えた〈世界〉の深さや広がりを、そこで実感することになった。
日中交戦下の日本においても、「満州国」留学生が数千人、また中国人留学生も数千人が学び続けていた。明治末期からこの時期まで、彼らが各々の時代状況下で、何を考え、それを帰国後にどう活かしていったのか。それら「留学生側の学び」の一端を本書では、示すことができたと考えている。
しかしながら、本来的には、双方向的、互恵的関係性を考慮に入れた上、留学生と日本との関係を総体として捉え直す作業も大切になるだろう。
そう考えるのは、現状の東アジア諸国との関係性が依然として不全なためである。歴史のある段階で「日本が教えてあげた」のは事実かもしれない。しかし、長いスパンで見れば、逆の時代ももちろんあった。近代日本で学んでいた留学生たちの喜怒哀楽を、関係性の善し悪しにかかわらず、歴史の深層から拾いあげ、「日本側の学び」も含め、様々な角度から分析していく必要を強く感じている。そもそも、戦時下という究極の不和時代でさえ、「未来」を信じ、学び続けていた留学生がいた事実を忘れてはならないであろう。
「留学生三〇万人受入れ」政策の進捗により、大学内外で見かける外国の若者の数は日に日に増えている。果して政府は留学生をどのように処そうとしているのだろうか。一般市民は、彼らとどのように向き合っていくべきなのだろうか。このような時代であればこそ、まだまだ「留学生史の〈世界〉」の探究を続ける価値はありそうである。
[けんじょう ていじ/千葉大学国際教養学部]