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  • PR誌『評論』174号:萩原延壽先生と政治のリアリズム──江戸開城と「パークスの圧力」をめぐって

萩原延壽先生と政治のリアリズム──江戸開城と「パークスの圧力」をめぐって

吉良芳恵

萩原延壽先生と政治のリアリズム
 ──江戸開城と「パークスの圧力」をめぐって
吉良 芳恵

2001年に萩原延壽先生が亡くなってから、今年で8年になる。一昨年から昨年にかけて、『萩原延壽集』全七巻と文庫版『遠い崖──アーネスト・サトウ日記抄』全14巻、藤田省三氏との共同講演(みすずセミナー)を活字化した『瘠我慢の精神』があいついで朝日新聞社から出版された。完全主義者といわれた先生の『遠い崖』刊行に一方ならぬ力を尽くされた編集者・廣田一氏が、七回忌を期して、是非とも世に問いたいと企画した著作である。
私が由井正臣先生の紹介で『遠い崖』の史料助手をつとめるようになったのは、三十数年前のことである。先生に最初にお会いしたのは、JR飯田橋駅の改札口付近であった。先生は毎月宇都宮から上京し、東京厚生年金病院副院長で親友の山根至二医師の診察を受けることになっていたため、飯田橋駅で待ち合わせたのである。私は先生らしき2、3の方に、「萩原先生でいらっしゃいますか」と聞いてまわった。先生はそれを見ていたらしく、柱の陰から「萩原です」と照れくさそうに名のり出て下さったが、その時のばつの悪さは今でもはっきりと覚えている。面接試験だと思ってお会いしたのだが、その後お眼鏡にかなったのか否か判然としないまま助手となった。おそらく先生は断ることが苦手であったため、とりあえず手伝ってもらおうと思われたのだろう。ただ、津田塾大学で掛川トミ子先生の演習ゼミ(『文明論之概略』がテーマ)に出ていたこと、早稲田大学大学院で幕末維新期の研究で知られる洞富雄先生の指導を受けたこと、また洞先生が大佛次郎の『天皇の世紀』の編集協力をなさっていたことが幸いしたことは確かである。
以後、歴史家(先生にはこの言葉が最も似合う)萩原延壽の凄さを幾度となく見ることになったが、江戸開城における「パークスの圧力」についての考察は、その白眉といってよいだろう。
「パークスの圧力」とは、1868年、すなわち戊辰戦争の最中に、徳川慶喜処分案などをめぐる西郷隆盛と勝海舟の会談に、英国公使ハリー・パークスの「圧力」が及び、江戸総攻撃が中止されたというものである。その約30年後、具体性と迫力をそなえた大村藩士渡辺清の証言「江城攻撃中止始末」が『史談会速記録』に発表された。それ以来、武力倒幕論者である西郷が江戸総攻撃を独断で中止した背景には「パークスの圧力」があると解釈され続けた。石井孝氏も『戊辰戦争論』(吉川弘文館、1984年)等で、渡辺証言や英国外交文書を用いて、勝が「パークスの圧力」を背景に西郷との会談に臨んだと述べ、内政干渉を許した西郷らの対英従属性を指摘する。そこで、渡辺証言の中でも最も注目すべき箇所、すなわちパークスの発言が西郷に伝わる場面を紹介しておこう。
「彼(パークス)のいう所は道理であるから、明日の江城打入りということは出来ぬ……清(渡辺)は急飛にて品川に行き、此事を西郷に告ぐべしと、木梨と横浜で別かれて、馬に騎り切って品川に着したのは、今の午後2時頃であった。直ぐ西郷の所に行きまして、横浜の模様を斯々といいたれば、西郷も成る程悪かったと、パークスの談話を聞て、愕然として居りましたが、暫くしていわく、それは却て幸であった、此事は自分からいうてやろうが、成程善しという内、西郷の顔付はさまで憂いて居らぬようである」。
臨場感あふれる記述であるが、萩原先生は、こうした従来の説を再検討し、サトウやパークスの報告を含む英国外交文書や海軍の航海日記を主軸に、海舟日記、西郷書簡、渡辺証言など幕府・倒幕両側の諸史料を綿密につきあわせた上で、別の説を展開された。
まず、英国側史料の日時の確定を行い、さらに日本側史料の日付の異同を丹念に検討、江戸と横浜の距離や時間差などを勘定に入れた上で、「パークスの圧力」は西郷・勝会談に影響を与えたのではなく、西郷が東山道先鋒総督参謀乾(板垣)退助ら強硬派や京都の岩倉具視ら新政権首脳部を説得し政策転換を行うため、意識的かつ政治的に利用されたのだと分析、それこそが戦略家西郷の政治手腕であると説かれた。パークスは貿易を阻害する内戦の長期化を望んでおらず、また西郷らの意向もパークスの意向と合致していたため、「圧力」はどこに、どのように働いたのかを解くことこそが、この問題の核心であると考えたのである。政治力学を熟知する先生ならではの卓見であろう。パークスの報告には「省略された部分」があるのではないか、またそれを西郷がある種の「圧力」として利用したこと、しかし決して外国に「依存」=従属したわけではなく、西郷には「独立の気概」があったことを「読み取り」「読み抜き」「読み破」(『自由の精神』)られたといってよい。
先生はまた、横浜でもたれた東海道先鋒総督府参謀木梨精一郎とパークスとの会談を分析する箇所でも、日本側史料中の「昨日ソンティ(サンディ=日曜)」という表現に注目して日時を確定するなど、推理小説を読むような静かな興奮を用意して下さった。さらにサトウが勝と西郷の会談内容をどの時点で知ったかという点についても、サトウ・西郷・勝の関係を中心に「歴史における個人の役割」を深く考察し、『一外交官の見た明治維新』の曖昧な部分に史料批判を加えられている。
こうして従来の「パークスの圧力」説はくつがえされたが、勝海舟研究の第一人者である松浦玲氏は「大河評伝・遙かな海へ」(『論座』1998年)で、先生の解釈に賛同した上で、渡辺談話の読み方に若干の異をとなえる。西郷は会談時に「パークスの圧力」を把握していたが、勝に譲歩したのは圧力のためではなく、〝王政復古は薩長の「私」〟という勝の理屈に理解を示したからであると見るのである。ちなみに松浦氏は、その後のパークス・勝会談で、京都の新政権が慶喜の助命を認めなかった場合には亡命させるという「密事」が両者の間で論じられたとする従来の解釈に、先生とは異なる視点から疑問を呈されている。
これからも、萩原先生の新解釈をめぐってさまざまな戊辰戦争論が展開されるだろう。勿論、残された歴史史料が全てを答えてくれるわけではなく、またそれ故に歴史を深く洞察する目を養わなければならないが、先生が政治のリアリズムを西郷、あるいは勝の「高等政治」に見、歴史を「読み解」いた姿勢からは多くのことを学ぶことができる。政治のリアリズムを論ずることのできる歴史家萩原延壽に出会えたことは、私の最も大切な財産である。
[きら よしえ/日本女子大学教授]