神保町の窓から(抄)

▼小誌の数号前で、未来社を創業した西谷能雄さんのことを書いた。出版界においても、その生き方においても、頑迷固陋を自称し、反権威を背筋に通して、青年社員松本昌次さんと共に、戦後出版史に残る数々の名著を拵えてきた出版人のことだ。
 80年代初頭、小社の社業はやや大きな混乱と闘っていた。社員は激減し、信頼できる三人の社員を先頭にして、会社の存続をかけて苦闘する日々であった。その渦中に、ふとしたことで知遇を得ていた西谷さんが手を差し伸べてくださったのであった。「つぶれそうな会社とは、手を切れ。人生目茶々々になるぞ」と忠告された西谷さんであったけれど、銀行や業者に「われわれが引き受けた」と言ってしまったあとだったので、ご忠告は生かせなかった。「キミがその気なら……」と、西谷さんは現実の場に登場してくれたのだ。負債の分量や、在庫や戦闘力の有無などあれこれと聞かれた。その問いに答えているだけで力の湧き出るのを実感した。ひとつの例をあげよう。西谷さんは、大学生協との取引の少ないことに気づき、「取次は、トーハンや日販だけではダメだ」といって、当時大学生協の指定取次店であった鈴木書店に連れていってくれた。鈴木書店の破れかけたソファーに腰をかけ、強い語気で取引の開始(このことを業界では、口座を開くという)を迫ってくれた。鈴木の社長も熱心にそれを聞き、「仕入課とよく相談しろ」と仰っしゃるではないか。その場面では、取引開始は諒解されたものと信じ、人々の温かさに涙ぐんでしまった。しかし、鈴木書店の仕入課の面々は、われわれと関係をもつことの不利を感知し、社長や西谷さんの意向を無視し、取引は実現しなかった。そんなことにまで指導を惜しまれなかった西谷さんであった。
 こういうことがなかったら、あの硬骨にして頑迷且つ固陋な西谷さんを慕いつづけることはなかったかもしれない。世間一般は、どちらかと言えば近寄り難い、いや近寄りたくない人だったろうから。が、われわれがそれを思い続けられたのは、もう一つの側面があった。未来社には西谷さんの半身ともいえる、心優しき飲兵衛がいた。その人が戦後編集者列伝の岩頭に位置する松本昌次さんであった。松本さんは、30年在籍した未来社を辞めた。事情は知らない。1983年、「日向より影になっている場所の方が心はつながる」と言って影書房を立ちあげ、出版を通じての非戦運動を展開し始めた。われわれはその機に、西谷さんが生きているうちに西谷さんの伝記を書いてくれるよう懇願した。だが、松本さんの腰は重かった。95年4月、それを知ってか知らずか、西谷さんは逝ってしまった。81歳。「だから言ったでしょう」などと松本さんに言えるわけがない。西谷さん没して一年たった九六年夏頃、「やってみるか」と叫んだが、本格的には踏み出せなかった。運動や社業に忙殺されていたのだ。さらに、10年以上が流れた。催促めいたことは言わなかった。松本さんも言い訳など口にしなかった。いつかは「やる」ことの決意は共有していた。
 2006年、松本さんは、『論座』に「わたしの戦後出版史」なる連載をはじめ、2008年にはそれを単行本にした(トランスビュー刊)。またこの年の暮れには、影書房が四年がかりで刊行してきた「戦後文学エッセイ選」(全一三巻)が完結した。松本さんは、この二つの仕事を通して、弔ってきた数々の著者たちとともに、西谷さんのこともまた思ったことだろう。今度こそ、いままでの宿題を片付けなければならない。西谷伝を書ける唯一の人、その人が惚ける前に、とわれわれの目つきは真剣になった。松本さんは、観念し、集中して取り組んでくれた。何年も待ちつづけた「西谷伝」が今できるのだ。松本さんの命名した書名は『西谷能雄 本は志にあり──頑迷固陋の全身出版人』である。間もなくお届けできます。
 また、松本さんと支え合って生き抜いた庄幸司郎さんの評伝『庄幸司郎 たたかう戦後精神──戦争難民から平和運動への道』も同時期にできあがります。庄さんについては、別の機会に書きます。
▼谷川雁の文章をあつめた『谷川雁セレクション』(全2巻)ができました。朝日新聞一面下の、通称「サンヤツ」の右端に大枚をはたいて広告をだした。毎日にも読売にもだした。心親しき知人から「何を考えているんだ」とお叱りの電話をいただいた。彼は雁さんの名は知っていても心を動かされたことはなかったのだろう。別にたいしたことを考えたわけではありません。ただ、「東京へゆくな ふるさとを創れ」というアジ詩を書きながら東京に来ていた雁さんに触れたのはいつのことだったろうか。雁さんにのめって行った青年ではありませんでしたが、言葉を整理し、大切に使う思想家詩人が、現在の青年にどれだけ受け入れられるのか、それを確かめたい、そのためには多くの人にこの刊行を知ってもらわねば……そういう思いでやってしまったことでした。 (吟)