神保町の交差点

今回、本欄は「僅」生が担当します。
「萬家太平春」、8月の暑い中、日頃お付き合いしている同業の仲間らに、社長就任祝いの場を設けていただきました。その際、淡交社の方から、「肝に銘じて」と言われ渡されたのが、このお言葉が記された色紙です。意味はこうです。「春という季節は、すべての生あるものに対して目覚めを促す。至るところに、差別なく等しく春が訪れること」。高僧・前大徳紹尚の書です。「良く決断したね」とか「怖いもの知らず」と言われるなか、太平ではないこの出版業界でいかに本を出し続けられるか、友人からの助言に耳を傾けながら談義をし、宴は遅くまで続きました。
●自己紹介をさせていただきます。私は小社での勤続は20年目。前職は専門商社で営業をしていました。岩手県盛岡市で生まれ、程なくして「杜の都」仙台に移り、広瀬川を遊び場として育ちました。小学校の4年生の時に父の転勤で千葉県の船橋に移住、社会人となるまですごしました。この頃、小学校で覚えたバスケットボールに夢中になり、小・中・高・大とバスケで学生時代を終えてしまった、いわゆる体育会系です。就職は公務員を目指していましたが、時は平成のバブル絶頂期、民間企業へと鞍替えし、社会人生活を始めました。巷は賑わい、何をしても上手くいきそうな好景気。その数年後、バブルが弾け不況のすきま風吹き始めた頃、それまで築いてきた人との繋がりがギクシャクし始める。「金で問題が起きたら、金で解決する」業界の風潮のなか、自分として得るものもありましたが、それにも増して失うもののほうが多かったと思います。結果、くたびれ果てました。無くした人との繋がりがこの業界にはある。失意の私が、最後まで働く場と決めたのがこの会社です。
●社長就任後、取次関係・印刷・製本・用紙などの関係業者、書店の方々への挨拶廻り、経理が用意してくれた代表者変更の書類に押印し続け。最初の1ヶ月で身についたのは美しいハンコの押し方ぐらい。金融機関では、支店長に器をはかられながら、これまで継続してきた実績を見てもらい、これからも続けていく日本経済評論社を支えてもらうこと。必要な時はいつでもハンコを押す「覚悟」を告げ、新時代が動き始めたのでした。
 一日、学会にも足を運び先生方にご挨拶をしました。先代の意志を継いで頑張ってもらいたい、若い力でこの会社を盛り上げて欲しい、君はこの社の歴史を理解しているのか、これからどの様な会社を目指していくのか、などなど励ましともにきびしいご注文もいただきました。小社の社風を理解し、親しく接し、ご心配いただき、さらに社を支えてくだる著者の先生方には、感謝いたしております。
●この夏、ひとつのシリーズが完結しました。全5巻9分冊、元沖縄国際大学の来間泰男先生が纏められた「沖縄史を読み解くシリーズ」です。先生は、当社が出発して早々の一九七九年、『沖縄の農業』を発表され、復帰間もない沖縄の未来を思索されていました。昨年六月に、「沖縄の覚悟」を刊行した時は、一緒になって沖縄の書店を廻ってくださり、その中で、「沖縄の覚悟」が本土にうまく伝わらず、都合良く引きまわされる沖縄県民の怒りと苦悩を知ることができました。この一生に近く沖縄を考え続けて来られた先生のご努力が本になりました。どうぞご一読下さい。このシリーズは先生の血書です。
●7月1日、定例の全体会議にて、先代の退任挨拶がありました。長きにわたり、繋がってきた著者の方々とのものがたりを自分史にあてはめながら、社員が、著者との関わりをより一層深めていって欲しい、「そのために俺をつかえ」。そして最後に、「いいかよく聞け、俺の轍を踏むな」と締めくくるのでした。
 去る者来る者の連続のなかで会社が続いてきました、著者との出会い、本をつくる楽しさ、本を売る楽しさ、社員がここに居続けることができる楽しさとは。結局、意に沿った本を作り、少しずつでも着実に売れ続け、読みたい人の手に届けられることが前提です。このことはずっと考え続けていかなければなりません。
 この社で20年、長所、短所もそれなりに理解してきたつもりです。「轍」があっての45年の歴史と思うと、これからの10、20年後への「轍」はどう刻んでいくべきだろう。2016年秋、そっと車輪を押し出発した私です。
 よろしくご支援をお願いいたします。 (僅)