区切りを迎えて

上山 和雄

本欄への執筆は著書を刊行していただく者の一種の義務ではあるが、筆者にはそれ以上の意味、私的なことではあるが、今年度を以て勤務先を退職するという区切りの意味もある。
定年というのは、何年も前から決まっている出来事だから、いくら行き当たりばったりで仕事をしてきた人間であったとしても、それなりの準備ができるはずであろうにと、人は思うだろうし、自らもそうだった。ところが人生は、長きにわたって続けてきた暮らしの締めくくりは、そう思うようにはならないものだ。おそらく多くの先人がそのような想いをもって、締めくくりの時を迎えてきたのであろう。
近現代史研究者の末席に連なる一人として、自らに課した締めくくりの一つが、今回刊行できる運びとなった『日本近代蚕糸業の展開』である。筆者が近代社会経済史研究のトバ口に立っていた1970年代前半、幕末・維新期研究は一段落を告げ、産業革命期の研究が本格化していたころであった。農村や地主制、社会運動の研究なども資本主義ウクラード(この語自体、死語に類するのであろうか)との強い関連のもとで研究されるようになっていた。その中で個別産業の研究も盛んになり、私たちの上から、私たちの世代にかけては、何か一つの産業を自らの専門の一つとして取り組むものが多かった。筆者も大学時代を松本で過ごし、卒業論文で長野県庁文書などを使って蚕糸業を少しかじったこともあったため、蚕糸業を勉強しようかと考えていた。
蚕糸業史は第Ⅰ期の『横浜市史』を担当された海野福寿氏や石井寛治氏らによって研究が進み、石井氏の『日本蚕糸業史分析』(東京大学出版会、1972年)が刊行され、以後蚕糸業を研究するもの、あるいは関説するものはほぼすべて氏の論を踏まえたうえで展開するという、まさに参照すべきスタンダードとしての位置を占めることとなった。筆者は氏の濃密な実証と組み立てられた論理に圧倒されたが、強い違和感を覚え、長い書評を執筆した(石井氏からは、高村直助先生を介して、よく読んでいるというお褒めの言葉をいただいた)。しかし、蚕糸業を研究しようという意気を、一気に阻喪されたのも確かであった。個別産業の研究は、一般的にスタンダード的な研究が出されると、その分野の研究は著しく低調になるのである。そして全体として産業革命後の時代やインフラなど、未開拓の分野に研究の中心が流れていった。
再び蚕糸業に取り組もうという気持ちを持つには、10年近くを要し、他の分野の研究をしながら、蚕糸業の研究も進めていった。恩師の高村先生からはその間、蚕糸業で学位論文を出すように勧められたが、今一つ踏ん切りがつかず、米国国立公文書館の接収文書を主にした研究で学位をいただいた。今回刊行していただく書物は、1983年から2010年という、若い人にとっては信じがたいような長期にわたって書き継いできた論文をまとめたものである。あらゆるご批判を甘受せねばなるまい、という忸怩たる思いである。
筆者の最初の著書は、本社から出していただいた『陣笠代議士の研究──日記にみる日本型政治家の源流』(1989年)である。日本経済評論社として政治関係の本を出すのは初めてということもあり、栗原社長と編集担当の谷口氏と交わした会話の記憶も鮮明である。この本の出版以降、首都圏史叢書の刊行などでも大変お世話になっている。さらに近年は、主査として学位を出した若い方々の成果の刊行でもお世話になっている。
教育というとおこがましいが、大学院生には恵まれた教員生活であった。院生の数は多くないが、真剣に取り組むだけでなく、楽しく勉強を続けることができた。初めの頃の院生は課程博士を出す以前だったため、学位を取っていない方が多いが、改めて考えると一〇人の主査を務めたことになる。筆者の大学はかなり長い審査報告書を書き、印刷して小冊子となる。申請者にはこちらの労力に応じるものを求めており、多くの方がほぼそのまま刊行している。
外交史分野は筆者もお世話になっている芙蓉書房にお願いしている。本社にお願いしたのは、坂口正彦氏の学位論文をまとめた『近現代日本の村と政策』(2014年)と吉田律人『軍隊の対内的機能と関東大震災』(2016年)である。2人は同期生で、2年次の時から筆者のゼミを選択し、切磋琢磨しながら成果を挙げてきた。教師として、これ以上のよろこびはないのであろう。
[うえやま かずお/國學院大学教授]