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臆病な単能工の日々  ──戦後70年、編集者50年を生きて

伊東 晋

下谷政弘『随想 経済学と日本語』(日本経済評論社、2016年)を読み、「往事渺茫」の語に相応しい学究生活史の豊かさに感動した。顧みて自らの貧相な日々に思い至り、何事か拾いおくべきものを探してみた。
かつてある先輩編集者が、華やかで自己顕示的編集者たちとは違う「編集者生涯赤鉛筆一本」という生き方もあると自嘲的に語るのを聞いた。私はまさにその単能工の道を歩んだ。
生後すぐに横浜空襲に遭遇し疎開した能登で、戦争遺児や在日朝鮮人の子供など戦争の被害者である大勢の友人を目にして育った。愛国心をはじめ、国や企業・政党・イエといった集団に帰依することがいかに苛酷な運命をもたらすかが、子供心に浸み込んだ。
1960年代後半、この心性は就職に際して表面化した。ベトナム反戦運動時代の学生のもう一つの面=モラトリアム青年として迷い抜き、さしあたり最も帰属と遠いかに見えた学術書出版社に入社した。だがそこでも東大→オーナー→社員という忠誠心の階梯の存在にすぐ気付いた。優れた成果を誇る主流への反抗心と持前の心性とが野合し、ある中間管理職が主導する大学教科書大衆化路線に便乗した。
ところが1970年代後半、担当していた当時の経済学の市場原理への帰依の強さに驚くことが重なって興味を失い、個人の行動の多様性に関心を向ける経営学や心理学に脱出口を求めた。新規分野での仕事は能力を超えたが、講座型企画で多数の研究者と一気に交わり集中学習する即席型対応で乗り切った。一方、標準教科書偏重からも脱出すべく、研究書や啓蒙書の受け皿シリーズ作りに注力した。この鼎立パタンは技能のマニュアル化とともに臆病な編集屋生活を最後まで支えた。
「1989年」の衝撃はこの心性を増幅させた。私と違い強固な帰依・帰属意識で研究を展開し追随者を集めていた人が突如沈黙し、異なる見解を発表する事態は、彼らへの強い劣等感を一掃してくれたが、研究者への憧憬は揺らいだ。「大切なのは人ではなく作品だ」という同世代研究者の助言に深く頷き、原稿を読むスタンスが変わった。文章がリニアに展開されているか、主語述語のずれや接続の順逆の曖昧さや論理の飛躍がないか、学説・方法への無用な依存がないか、サンプルの大きさや選択は適切か、といった猜疑心が強くなった。ある著者に「伊東は原稿を読むから良い」と褒められたが、この猜疑心が伝わったのだと思う。
1990年代半ば、年齢相応に編集部をまとめる役割を得て、校正者の熟練の継承を図ったり、企画提案のマニュアル化に腐心したりした。こうした技能の支えは、原稿の読み方や学会発表等の聴き方を変え、個々の社会現象について自らの立ち位置を持つことを助けるだろうと考えた。 
研究や原稿を評価する際、所属する集団等の規範・利益を基準に判断することはある意味で容易だが、それを忌避すれば、個々の対象に自らの意見を持ち他人に問うて検証する外ない。そこで若い編集部員と問題の所在を確認すべく話しかけたが、時は世紀末、意見を伏せ議論を避ける傾きが目立った。知識の量や操作力が私より数段上の人材が揃っていただけに残念だった。
2010年、編集屋生活の最後に大学出版部で働く機会を得た。大学の機関が選んだ学術原稿を公刊する機能の比重が大きかったが、それ以外の部分では、研究書と教材と社会問題への関与という鼎立型・マニュアル型の作業・判断スタイルを維持した。それは東日本大震災の記録と復興への提案を出版業務に組み込む上で有効だった。
青年期に帰属への臆病さ故に逃げ込んだ仮の職場だったが、その臆病さ故に必要とした作業・判断のマニュアル化により、半世紀に亘り単能工として働き続けえた。近年の改憲の動きの中で自らの立ち位置を確かめるべく、日本国憲法の条文を眺めた。とりわけ心に残ったのは、第13条の「すべて国民は個人として尊重される」という一文であった。憲法が掲げる基本的人権も主権在民も平和主義も、それら普遍的価値の出発点はこの一文にあると思う。少なくとも私は、マニュアルに頼って原稿を読み、戦々恐々、集団や学説への帰属や帰依から逃げ、「個人として」判断しようとしてきた。 
その間、有能で見識豊かな編集者が会社の意向を体して著者との改筆交渉に当たる苦渋の場面や、同窓会に蟠踞する人物に大学出版会が惨めに翻弄される現場等に出会った。臆病な単能工としてそうした場面を巧妙に避けてきたが、このせせこましい避き道も、見ようでは「渺茫」と見えないか。
[いとう すすむ/元有斐閣・早稲田大学出版部勤務]