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社会保障と財政は「蜜月」であれ  ──『社会保障の財政学』刊行に寄せて

小西 砂千夫

本書刊行後、複数の方に、『社会保障の経済学』という書名はかつてあったけれども、『社会保障の財政学』は珍しいというコメントをいただいた。なるほど、そう言えばそうか。確かに、社会保障制度を経済効果という観点で捕まえることはあったが、財政制度の側面で社会保障制度を通しでみる試みは、あまりなかったかもしれない。
社会保障制度を勉強するときに、ポイントになるのは歴史的経緯であると実感している。公的年金にしても公的医療保険にしても、個々の社会保障制度は、白地にあるべき姿を描き出すように制度設計してきた例はごく少ない。そのしくみがなぜそうなっているのかは、その制度が開始される時点での背景によって左右される。だからこそ、制度運営の文脈を読み解いていけば、来し方行く末が占えることになる。
社会保障の財政制度は難しいといわれる。典型が国民健康保険である。保険料と公費(税金)が半額ずつとされるが、そもそもなぜそれが折半なのかの確たる理屈があるとは聞かない。そればかりか、後期高齢者制度はまったく別のしくみであり、前期高齢者は国保の枠組みのなかで老人保健制度の名残をとどめるしくみになっている。さらに、保険料のなかで保険料軽減措置に伴う公費負担部分と高額医療費への再保険の部分があり、加えて赤字補填のための財政措置がある。国民健康保険制度の運用を支えるために、都道府県や市町村の財政措置に対して、地方交付税による財源措置が設けられる。
地方交付税は複雑でわかりにくいと、超越的な批判がされることがある。そこでいう超越的とは、地方交付税のあり方に対する根源的な批判ではないという意味である。国民健康保険制度にかかる財政負担の算定は、地方交付税の算定式でももっとも複雑なものの一つであるが、複雑である理由は、国民健康保険制度に求めることができる。国民健康保険は、きわめて事務付けの強い事務であって、それに対してきめ細かく財政需要を捕捉するのは、地方交付税の性格として当然である。したがって国民健康保険の財政負担を算定式でトレースする必要がある。その結果、複雑すぎる制度と批判されたところで、冤罪のようなものである。
戦後、国民皆保険・皆年金は先進国でももっとも早い時期に導入された。若干、背伸び気味の改革であったが、当時はまだ人口のボーナスがあり、高い経済成長率に支えられてワークした。医療機会の確保は、わが国の経済社会の基盤安定にどれほど寄与したかわからない。そのことはもっと高く評価されてよい。その結果が長寿化であり、やがて経済成長が鈍り、人口減少社会になったことで、社会保障の持続可能性が問われているのが今日である。
国民皆保険は世界に誇る社会インフラである反面で、医療保険制度は職域保険としてスタートしたことで、国民健康保険制度を財源面で支えることが常に課題とされてきた。そこで、老人保健制度でテコ入れし、後期高齢者医療制度で本格的に対応することとした。後期高齢者医療制度は大きな批判を受けたが、二度の政権交代を経てみるとすっかり定着した。そして今度は社会保障・税一体改革のなかでの国民健康保険の都道府県への移管である。すなわち、職域保険からスタートした経緯のなかで、統合化の動きを時間をかけて進んでいる過程にある。それがみえていれば、後期高齢者医療制度の導入時に、あれほど過敏に問題点を叫ぶ必要はなかったはずである。
社会福祉を学ぶ大学院生に、どうして福祉にはお金が回ってこないのかという疑問を投げかけられたことがある。福祉にお金が使われないどころではない、いまや予算の大半は社会保障である。社会保障給付への税金投入は、2ケタの兆円に達する。お金が回ってこない福祉とは、制度として確立されていない社会福祉の分野をいうならば、確かにそうである。戦前は保育所ですら公的制度として確立されていなかった。社会福祉は、そこにある社会的ニーズに着目し、それを掘り起こして制度として確立させてきた歴史であるといえる。福祉にお金が回ってこないとは、裏返せば、社会福祉のフロンティアを求めて、健全に制度形成の過程を踏んでいることの裏返しともいえる。
社会保障と財政はもっと蜜月であってよい。財政学を学ぶ者が人間福祉学部のスタッフに加えていただいて声を大にして叫びたいことである。
[こにし さちお/関西学院大学]