災害と軍隊

吉田 律人

凄惨をきわめた東日本大震災の発生から5年を迎えた。あの時、多くの方が被災され、困難な生活を強いられるなか、救助活動のため、消防や警察、海上保安庁、そして陸・海・空の三自衛隊が被災地にむかった。また、アメリカ軍も「トモダチ作戦」の名の下に艦艇や航空機を派遣して被災者の救助にあたった。こうした諸機関の対応は災害の規模に応じて行われ、アメリカ軍の公的な出動はないものの、1914年9月の御嶽山噴火や2015年9月の北関東水害など、近年の大規模災害でも確認することができる。
ここで注目したいのが軍事組織である自衛隊の存在である。自衛隊による災害対応は自衛隊法第83条に「災害派遣」として規定されており、東日本大震災を挙げるまでもなく、自衛隊の救助活動は広く社会の中に定着している。オレンジ(消防)やブルー(警察)の服装とともに、被災地で活動する迷彩服、グリーン(自衛隊)の集団は被災者の救助や社会基盤の復旧に大きな役割を果たしてきた。
では、武力行使を最終目的とする軍事組織がいつ頃から災害対応を行うようになったのか、言い方を変えれば、敗戦以前の日本の軍隊は国民の生命や財産を災害の脅威から守ってきたのか、自衛隊の活動を見るたびに、そのような疑問が頭をよぎった。しかし、それに答えてくれる研究はなく、今まで描かれてきたのは、「暴力装置」として民衆を弾圧する軍隊の姿であった。
約10万5000人が犠牲となった1923年9月の関東大震災においても、軍隊は朝鮮人や中国人、社会主義者を虐殺した主体として否定的に見られてきた。一方、戦後歴史学の問題関心は被災者の救助や救療、消火活動、社会基盤の復旧等にむけられることはなかった。大日本帝国の軍隊は災害で苦しむ民衆を助けることなく、見殺しにしてきたのだろうか。虐殺問題への軍隊の関与は否定できないが、国内における軍隊の役割を客観的に捉えるためにも、軍隊側の論理や行動にもっと目をむける必要があるだろう。
拙著『軍隊の対内的機能と関東大震災』では、対内的軍事法制の変遷や軍事的空間の変化、実際の対応事例を体系的に分析することで、明治・大正期の軍隊の対内的機能を明らかにしている。関東大震災時の軍隊の活動についても、当時の制度や災害対応の蓄積を踏まえながら、その相対化を試みた。そうした作業を通じて、軍隊が災害と対峙し、救助活動にむかうようになった経緯を明示できたと考えている。
軍隊の災害出動制度は1910年3月の衛戍条例改正を契機に確立し、各衛戍地(陸軍所在地)単位で災害時の対応が詳細に定められた。当時、日露戦争の終結とともに、軍隊と社会の関係は悪化しつつあり、それを改善するため、世論を先導する新聞は軍隊側に積極的な社会貢献を求めていた。
その後、東京では、同年8月の関東大水害や翌11年4月の吉原大火で大規模な救護活動が展開され、『東京毎日新聞』などは「吾人は敵を征服して屍山血流を作るの動作よりも、同胞の災厄を救ふが為めに、猛火と争ふ将卒の奮闘を見るに於て更に快感を増すを禁じ得ざるなり」と軍隊の対応を評価している(1911年4月11日付)。
しかし、教育の遅延や権限の問題など、軍隊側はさまざまなジレンマを抱えていた。人々の期待は、戦争に備える軍隊の本務を阻害するおそれがあり、指揮官たちの判断を鈍らせた。また、地方自治体や警察による過度な依存は、行政機関の機能分担を崩す可能性もあり、軍隊側は権限の拡大にも慎重な姿勢を示していた。既存のシステムの枠を越えた関東大震災では、それまで燻っていた問題が一気に表面化、大きな混乱を招くことになった。
今日、軍事組織のあり方をめぐってさまざまな議論がなされているほか、憲法改正の問題でも非常時の権限拡大を認める緊急事態条項が話題となっている。しかしながら、過去の事象を踏まえた議論は少ないように思う。軍隊が「暴力装置」であることは論をまたないが、過去の教訓、災害対応の側面から軍隊の役割を問い直すことも必要なのではないだろうか。
[よしだ りつと/横浜開港資料館調査研究員]