農地改革研究の途上にて

福田 勇助

最近、私はこれまでの研究を『日本農地改革と農地委員会』に取りまとめた。そこで問題関心と研究経過を振り返り本書に込めた想いを述べてみたい。
私が大学に入学した1970年代初頭は学園紛争の熱気がまだ存続しつつも徐々に後退していく時期で、「紛後派」という言葉も流布していた。他方、社会科学分野では既存の古典解釈や西欧中心の歴史観から脱却し、新たな地平から問題を再構成しようとする機運が醸成されつつあった。その背景には、私達の前世代が「封建制から資本主義への移行」や「近代化」を主な研究テーマとしたのに対し、高度経済成長末期に至り資本主義が一層定着するなかで、新たな学問的基準が必要になったという事情があった。市民社会論や共同体論の再検討、非西欧世界の論理も議論された。同時に、多様な角度から西欧の歴史的経験の見直しも進んだ。私も卒論で西欧中心の比較経済史を相対化しつつ、農地改革の評価をめぐる論争の整理を試みた。栗原百寿や綿谷赳夫の著作に出会ったのもこの頃である。修士課程で近世前期から明治初期にかけての地主経営を分析したこと、その後に関わった自治体史編纂においては、近現代農業史に取り組んだ経験も有益であった。
学部・大学院修士課程を過ごした東京教育大学農学部は、かつて駒場農学校の敷地であった。そこは日本農学発祥の地の一つであり、わが国最初の水田土壌実験が行われた「ケルネル水田」が今なお存在する。当時を振り返ると自由な雰囲気のなかで学生生活を送ることができた。これに比べると、大学移転と同時に博士課程を過ごすことになった筑波大学は、当初、別世界のように見えたが、ここでも多くの諸先生にお世話になった。特に最終的にご指導いただいた滝川勉先生からは、西欧だけでなくアジア諸国の農業・土地問題を視野に入れて日本農地改革を再考するという、それまでとは異なる視点を体得することができた。この問題は夏季冷涼な畑作畜産を中心とする西欧農業と夏季高温多湿のモンスーン・アジアの稲作農業の発展論理の相異に帰着する。第一次、第二次エンクロウジャーを経験したイギリス農業は三圃式→穀草式→輪栽式という農法展開を経て個別的な大規模経営を生み出すのに対して、稲作水田を連作可能な一圃式と捉える加用信文先生の日本農法の性格把握は、私の農地改革に対する見方を変化させた。A・ヤングやW・マーシャルなどの古農書も土地改革と経営改革の区別と連関を認識する契機となった。水田稲作農業が共同灌漑を要し、その地力維持が共同管理の採草地等に依存してきた日本農業はイギリス農業とは異なる土地改革を経験せざるをえない。日本農業では私的土地所有の基底に「村の土地」という観念が伏在する。この観念は敗戦直後の労働市場の崩壊局面において農村が引揚者、失業者等の過剰人口を抱え土地不足に見舞われるなかで一層強まり、農地改革も「村の土地」の再分配という性質を帯びることになる。
農地改革が中央政府レベルでの法制度改革のみでは実行しえなかったのは、農民が居住する末端農村が改革現場だったからである。国や都道府県には農地問題に有能な役人も多数いたが、彼らが全国約1万1000の市町村で改革を遂行することなど不可能に近い。農地問題の解決は個別農村の農地・農家事情を知悉する農民自身の手によるほかなく、この意味で農民代表からなる農地委員会の活動を不可欠とした。
農地委員会は敗戦後、突如生まれたのではなく、その淵源は戦時農地政策のなかにあった。敗戦後、同委員会の権限が強化され委員の階層代表制も明確となるが、農地委員会そのものは日本側農林官僚が構想した改革実行システムであった。GHQ天然資源局(NRS)は占領当初、このシステムを十分理解できなかったが、農林官僚との折衝や実地調査を通じて認識を改めていく。この認識の深まりはNRSの「日本化」といってよいが、この経過も含めて、戦前・戦時期から改革期に至る農地委員会に関する政策史研究は本書の柱の一つである。
もう一つの柱は戦前・戦時期の地主制展開と小作争議発生の地域的相関性が、農地改革期の小作地引上げや異議申立・訴願などの地域差とどのように結びつくのかという問題について全国的俯瞰を得ることである。その結果は農地委員会の事例分析にも有効な視点を提供している。
三つ目の柱は、複数町村の事例分析であるが、これは聞取り調査と資料分析からなる。農地委員、専任書記、部落補助員、農民組合役員の経験者からの聞取りについては、1980~90年代には彼らの年齢からそれ自体がしだいに不可能になった。本書に功績があるとすれば、その一つは、彼等の言動を記録できたという点にある。聞取り調査の結果は資料分析においても有用であった。これらの調査を通じて、農地委員は階層代表であると同時に部落代表でもあり、部落補助員の活動とも相まって、農地改革は農民参加による「村の事業」として実行されたことが明らかになった。つまり農地委員会は国家と農村を連結し農地改革を村レベルで実行する政策装置であった。
農地委員会が機能するには各町村固有の改革実行体制が必要不可欠であり、その多様性は本書の事例が示すとおりであるが、一方では共通性もあった。委員会運営方針の策定、委員の部落別階層別配分の決定、書記の選任、農民組合の組織化、村役場や農業会との連携機構の整備、委員会に先立つ事前協議会の開催、世帯構成や兼業所得を考慮した農地調整、地主の改革受入れを後押しする弾力的法運用などの具体像は本書で示したとおりである。これらは異議申立・訴願件数の極少化及びその自主的解決を図る農民的英知や創意の表れであり、それ自体、農地改革の徹底性と円滑性の一因となった。
従来の農地改革研究では改革の歴史的意義や世界史的位置などの客観的把握に重点が置かれ、改革遂行の主体的条件の解明は相対的に立遅れている。このなかには改革期における新指導層の形成も含まれる。とはいえ改革がスムーズに進行した要因を改革現場レベルで解明する農地改革研究はまだ発展途上にあるという想いは、本書出版後にむしろ深まっている。
[ふくだ ゆうすけ/筑波大学]