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尾佐竹猛と鈴木安蔵──書誌調査をめぐって

飯澤文夫

 2007年に日本経済評論社から刊行した、明治大学史資料センター編『尾佐竹猛研究』収録の、拙稿「尾佐竹猛著書一覧」について、酒井康隆さんから次のご指摘をいただいた。
 1938年の『日本憲法制定史要』と三九年の『日本憲政史大綱 下』が鈴木安蔵との共著の扱いになっていない。永井憲一編の著作目録や、美作太郎による『大綱』成立のエピソードを紹介した上で、共著扱いしなかった理由を示してもらえるとよかったというものであった。裏づけとして、次の資料をご教示くださった。
① 有倉遼吉編『憲法調査会総批判──鈴木安蔵教授還暦祝賀論文集』(日本評論社、1964)所収、永井憲一編「鈴木安蔵教授の略歴および著作目録」
② 星野安三郎ほか編『日本憲法科学の曙光──鈴木安蔵博士追悼論集』(勁草書房、1987)所収、永井憲一・金子勝編「鈴木安蔵先生の略歴と著作目録」
③ 竹中佳彦著『日本政治史の中の知識人 下』(木鐸社、1995)所収、「鈴木安蔵主要著作」
④ 永井憲一著『憲法と教育法と共に』(非売品、2001)
⑤ 美作太郎著『戦前戦中を歩む』(日本評論社、1985)
 ①は鈴木からの申し出、②は鈴木の生前の指示として、尾佐竹と「共著・『憲法制定』の部分を執筆)」と記述、③も同じく「共同執筆、「憲法制定」を執筆」としている。④は著作目録作成の様子を記し、⑤は晩年に鈴木から送られた手紙に基づいて、『大綱』の成立経緯を明かしたものであった。
 『大綱』は、『史要』に項目を加えたもので、内容はかなり重複する。「憲法制定」の項(『大綱』では下巻)は、各冊の三割ほどの分量を占めている。
 ⑤で鈴木は、「(自分の)『日本憲法史概説』の該当部分と同じだから直ぐわかる」「当時も〈木に竹をついだように、トタンに鈴木さんの面影が出てくる〉と笑われた」と言っている。確かに、項目立ては類似し、同じ文面もあるが、一見して、そっくり同じとは感じられない。尤も、『概説』は旧稿をまとめて1941年に刊行したもので、二著より後になるから、初出で校合しないと、正確なことは言えない。
面白いことに鈴木は、『概説』の例言で、『大綱』を「本書編著の際の一規準として常に左右に置いた。同書の叙述の幾多の部分を勝手に利用さして頂いた」と記している。これはどのように解釈したらいいのだろうか。
 二著には共同執筆者としての鈴木の名は、どこにも出てこない。だが、⑤によれば、尾佐竹から印税が支払われ、鈴木は自分の論文が収録されたことを感謝している。しかし、鈴木は何れ明らかにされることを願っていたようで、尾佐竹没後に実業之日本社で企画された尾佐竹猛全集『大綱』の巻のあとがきに、成立の経緯を寄せたが、全集は未完に終わり、日の目をみなかったとのことである。
 鈴木は唯物論者で、治安維持法で逮捕もされている。尾佐竹が鈴木の名を出さなかったことについて、美作は、「当時の険悪な社会情勢のもとでは、已むをえない仕儀」と忖度している。尾佐竹は少壮の鈴木を高く評価し、出版の度に書評を書き、憲政史編纂会の職を提供するなど、立場を越えて支えた。鈴木は、尾佐竹の方法論を厳しく批判しながらも、その著作から多大な影響を受けていた。憲政史編纂会での経験は、以後の研究の礎となった。学問で結ばれた、二人の純粋な関係は感動的である。
 二著の他に、①②はさらに二点、③は一点の論文を共同執筆としている。これも含めて詳細に検証し、稿を改めて報告したいと考えている。
さて、私が「著書一覧」で二著を共著としなかったことは、この事情を承知していなかったからに他ならず、不明を恥じるばかりである。ただ、図書に名が明示されていない以上、判明した事柄を注記する必要はあるとしても、「共著」あるいは「共同執筆」と表示することには些か抵抗がある。
研究書に付載する書誌は、飾り物のように扱われ、着目されることは少ない。このように、例証資料まで挙げてご教示いただけたことは、大変にありがたく、嬉しいことであった。                                                          [いいざわ ふみお/明治大学]