憲法の時代に生きるということ

新井 勝紘

日本の近現代史のなかで、国民自らが国のあり方を憲法という形で明らかにしようとした“憲法の時代”は、3回あったと私は考えている。 第1回目が1880年代を中心とした自由民権期で、私擬憲法といわれる。幕末維新期から1889年の大日本帝国憲法発布までの間に作成された憲法草案は、国家構想という少し広い視点で拾い出してみると、100を越える。それこそ全国各地で、さまざまな階層の人々が、草案作りに励んだ。明治政府が、腰をあげないのを見通して、民権運動側が先行する形で起草に取り組んだのである。 最も著名なものは、高知県の民権家・植木枝盛が作成した東洋大日本国々憲案である。国民主権や一院制をうたい、なかでも、注目すべきは、抵抗権や革命権を保障している条文である。「政府国憲ニ違背スルトキハ、日本人民ハ之ニ従ハザルコトヲ得」とある。また、「政府恣ニ国憲ニ背キ、檀ニ人民ノ自由権利ヲ残害シ、建国ノ旨趣ヲ妨クルトキハ、日本国民ハ之ヲ覆滅シテ、新政府ヲ建設スルコトヲ得」ともいう。憲法を守らないどころか、憲法の精神を踏みにじり、国民に保障した自由権利を蹂躙するような政府になってしまったら、国民は堂々とその政府を転覆し、新政府を樹立できることまで、国民の権利として認めているのである。 自由民権期には、ここまで徹底した憲法草案を国民自らが生み出していた。 1968年8月、東京経済大学の色川大吉教授指導の近代史ゼミナールの調査で、東京の西部、五日市町の深沢家土蔵から、この植木草案に匹敵するような民主的な憲法草案が出てきた。その時、私はゼミの4年であったが、土蔵二階の梁付近にあった小さな竹製の箱から、一つの風呂敷包みを取り出し、薄暗い土蔵の中で結び目をほどいて、史料を見ていた。それは一括史料群の一番下にあったが、土蔵内ではオリジナルな草案だとは気づかず、大日本帝国憲法の写しではないかという貧弱な推測しかできなかった。今思うと恥ずかしいが、その程度だった。結局、私が最初に手にした草案が、「五日市憲法草案」だったのだが、その歴史的価値がわかるまでは少し時間がかかった。 五日市憲法には「日本国民ハ各自ノ権利自由ヲ達ス可シ、他ヨリ妨害ス可ラズ、且国法之ヲ保護ス可シ」という条文が国民の権利の章にある。自由権利ではなく、権利が先の表現も注目に価するが、国民の権利をまもらない法律は国法として認めないという。国民の権利や自由、ひいては命や生活の平安をまもるために憲法がある。国の法律というものは、そもそもその原理で縛られているのは、当然のことだろう。 国法の基本は憲法だが、その基本原理をまさに示している条文と言える。 2015年からひき続いている現在の憲法状況をみる時、いまさらながらとは思うが、政治家こそ近代憲法史を学び直してもらいたい。押しつけ論を言う前に、歴史をひも解いてみよと。 日本の近代憲法史には、宝のような憲法が刻まれていることを。 第一期の憲法の時代では、100を越える草案が起草されたが、明治政府は、これらを一顧だにせず、ある日突然、明治天皇の名において上から欽定憲法として公布したのである。 しかし、民権家たちは、果たしてこの欽定憲法を唯々諾々としてのんでしまったのだろうか。憲法発布から僅か一か月後に次の記事(朝野新聞・1889年3月6日)ある。新富座で開かれた政談演説会の実況報道である。 「某弁士が我憲法は完全なりと述ぶるや否や、数百の聴衆は争てノーノ―と叫」んだと伝えている。国民こぞって受け入れたわけではない。明治憲法はだからこそ、逐条審議が必要だった。国民不在の憲法と言っていいだろう。この憲法が、1945年8月まで日本国家を覆い尽くし、この憲法下で戦争に突っ走ってしまったのである。 ノーノーといった反応に呼応するように、発布された明治憲法を逐条点閲する必要があるという憲法点閲論がでてきていた。最初の国会で逐条審議し、改正が必要なものは改正すべきだと主張した中江兆民もその一人であったが、日本を脱出してアメリカのサンフランシスコ周辺から、「第19世紀」「自由」「革命」などの新聞を発行して、日本の同士たちに送り続けていた在米民権家たちもまた、新聞を通して憲法の逐条検討が必要だと強く主張した。 こうしてみると、大日本帝国憲法発布後も、なお国民の間には憲法への違和感がくすぶり続けていたともいえる。 憲法の時代の第二期は、1945年8月15日以降から四九年ごろまでの時期で、民間憲法と呼ばれる草案が、29種あることが現在判明している。 各政党からも案がでたが、鈴木安蔵をはじめ、稲田正次、高野岩三郎、佐野学、布施辰治、中村哲、寒川道夫など、さまざまな個人が構想していた。この時期の研究が遅れていることもあって、全国の各地での取り組みはゼロに近い。五日市憲法が起草から八七年ぶりに世の中に出てきたことを考えると、第二期の民間憲法は歴史の底にまだ埋もれたままになっている可能性大である。全国の草の根で国のあり方を大胆に構想していたかもしれない。歴史発掘を期待したい。 この中で、鈴木がリーダーだった憲法研究会案はGHQに提出され、日本国憲法起草段階の参考資料として大いに使われたことは、複数の研究者によって証明されている。 第三期は、1955年あたりから2000年代にかけてで、五○種ほどの憲法案が確認されている。多くは戦前への回帰を含む保守的な案だが、中には光を発する案もある。 2012年に、自由民主党が「日本国憲法改正草案」を発表した。護憲派も、手詰まり状況といえるが、加憲、創憲、改憲などさまざまな主張が交錯して、憲法の時代はついに第四期に突入しているかもしれない。 あの時の草案が岐路になったという時代が来るかもしれない危惧がある。 日本国憲法にある「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」(12條)という条文を、いまこそしっかりと受け止め、近代憲法史に学んでいかなければならないと、最近痛感している。 [あらい かつひろ/専修大学元教授]